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「歴史の深さに想う」【大東京書簡第8信/後藤】

 

荒木遼太郎はしばらく別メニュー。今週の取材対応はなし(※先日の無料公開記事とは別カット)

◆在東京クラブ勢が6人よ

 AFC U23アジアカップが終了、代表メンバーも5月5日日曜日辺りに帰ってきて、いよいよいつものJ1が戻ってきますね。FC東京勢では松木玖生が最速で練習場のある小平に姿をあらわして(キャリーケース置いてあったんで空港からそのまま来たのかな?)、第12節北海道コンサドーレ札幌戦に出発する遠征メンバーを見守っていました。その松木と野澤大志ブランドンは8日から全体練習に合流。決勝戦の脳震盪で心配された荒木遼太郎も追っかけ戻ってきたようで、別メニューながら8日の練習から元気に走っていました。みなさまご安心を。

 しかし今回は呉越同舟というか、東京3クラブの選手たちが揃って躍動、準々決勝のカタール戦で一度は五輪の連続出場が途切れる事態を覚悟したところからの出場圏獲得と優勝という望外の結果を得て、本当によかったですね。Jクラブ勢17人のうち6人がFC東京、東京ヴェルディ、FC町田ゼルビアですからね。貢献度大。11日のJ1第13節では東京の3人と柏レイソルの細谷真大、関根大輝を称えるセレモニーがおこなわれるようで、日本サッカーのために貢献した彼らを精一杯労いたいところです。お祝いムードのなかで町田が首位を堅持しつつ、東京、ヴェルディも順位を上げて全体が圧縮されてきたのも朗報。この調子で東京がロンドンみたいになっていくことを期待しましょう。

 といったところで、松木の移籍報道が出たのをきっかけに、またぞろ東京のステップアップのしやすさみたいなポストがX(旧Twitter)で散見されるようになりましたけど、まあ代表に選ばれやすくて海外移籍をしやすいからこそ選手が集まるということもありますし、協会も協会で代表チームに選手を呼びやすいクラブがあると助かりますので、東京に良質の選手がやってきて代表で活躍して海外移籍の報道が出るというのは自然な流れだと思います。8日に山本昌邦さんが小平に来ていたのを見ても、やはり東京の貢献は大きかったのではないかな、と。

 呼びやすいというのは代表にとってかなり重要なファクター。交通機関が発達していなかった戦前は選手を集めてトレーニングをするのも大変で、単独チームになりがちな国体選抜ではないんですけど、1936年のベルリンオリンピックに臨んだ日本代表のメンバーはほぼ早稲田大学と東京帝国大学勢で占められていました。あとは東京文理科大学と慶應義塾大学がひとりずつ。ア式蹴球東京コレッヂリーグという初期の名称からもわかるように、東京にある大学チームが集まっておこなわれていた関東大学リーグが事実上日本サッカーの拠点だったので、当然といえば当然なのですが。そんな状況で海を隔てた当時の朝鮮半島から京城蹴球団の金容植が選ばれたということは、彼がそれほど優秀な選手だったということのあらわれではないのかな、と。こうした戦前の事情をお知りになりたい方はいくつか紙のサッカー本を読まれるとよいでしょう。ぜひ調べてみてください。88年前と現在とではまるで事情が異なりますし、戦前に関しては他国を占領・併合し日本の領土が広かった帝国主義時代のことでセンシティヴな面もありちょっと言い方が難しいのですが、あえてさっくりと言えば戦前のメンバーはFC東京と東京ヴェルディとFC町田ゼルビアの連合軍にFCソウルの選手が加わったようなものだったわけですから、なんといいますか、現代の感覚からするとちょっと変なんですけど、ロマンがあるというか。

 そのように大学サッカーが中心だった時代を経て、日本サッカーリーグの創設によって企業チーム中心の時代へと移行、そのムーヴメントのさなかで東京オリンピックとメキシコオリンピックの好成績があり、盛り下がってきたところでプロ化を決断してJリーグが誕生。そこから良質の選手が育って欧州のメガクラブに日本人が所属することも珍しくなくなり、インターナショナルマッチウイーク以外は欧州トップカテゴリーからの招集が困難になるなかで、Jクラブの東京勢が供給源になっていると考えると、今回のAFC U23アジアカップもなんだか味わい深いものがあります。

◆東京ヴェルディ危機一髪の原点

 そういうものの見方をするようになったのも、初期のサッカー批評で半田雄一さんに鍛えられたからでしょうね。

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