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太田宏介、36歳の現役引退。駆け抜けた18歳からの18年間【History】

 

記者会見開始前の壇上ディスプレイ。撮影:後藤勝


「10月3日は空けておいてください」
 
 FC町田ゼルビアの関係者からそう伝えられ、当日『太田宏介選手より皆様へお知らせ』と題された催しの受付に行くと先客がいた。太田の家族についての記事を掲載したサッカーダイジェストの人々で、それが縁で呼ばれているという。入口では受付のスタッフに「太田宏介からです」と伝えられ、彼の著書『ぼくの道』(ぴあ株式会社)を受け取ることが出来た。2023年8月30日第2刷。いま思えば、ラストイヤーであることを意識して増刷されたものだったのだろう。この催しの冒頭、太田は「こういうの弱いんだよなぁ……」と、涙を浮かべ呻吟(しんぎん)しながら挨拶の言葉を絞り出した。
 
「この度、私、太田宏介は、18年間の現役を引退することを決断いたしました」
 
 発表を受けてディスプレイの表示が「皆様へお知らせ」から「引退記者会見」へと変わる。その席上とのちの囲み取材で、2007年からのプロ選手としての18年間を含む半生の端々が太田の口から語られた。
 

挨拶を受けてディスプレイの表示は「引退記者会見」へ。写真はフォトセッションにて。撮影:後藤勝


◆J2優勝で始まり、J2優勝で終えられるか
 
 中学三年生の時、家庭に問題があり、そこで兄の大哉が起業家を志すのと同時にプロサッカー選手として身を立て、母親を幸せにしたいと思ったことがキャリアの出発点。この時代の困難については『ぼくの道』やサッカーダイジェストの記事を参照してほしいが、家族を幸せにすることが動機でありモチベーションとなっていたのだから、プロになりたいという想いは切実だ。金銭的に苦しいなか、当時の石井孝良監督らの奔走で特待生として諸費用の免除を受けつつ、小林悠と麻布大学附属淵野辺高校でプレー。高卒でのJリーグデビューをめざした。全国高校サッカー選手権大会への出場や国体選抜メンバー入りを果たし、念願かなって2006年には横浜FCに加入。新加入4選手の中でも序列は最下位で、新人として練習の様々な準備や後片付けをおこなう下積みからプロ生活が始まった。「練習中にボールを受けるのが怖かった」というほどのレベル差を感じるところからのスタート。しかし当時の高木琢也監督にセンターバックのポジションを与えられ、後継の都並敏史監督の指導で左サイドバックとして開花。左サイドハーフだった三浦淳寛にも見守られて成長した太田は2009年、清水エスパルスへと移籍する。
 
 長谷川健太監督や小野伸二との出会いがあった清水時代を経て2012年、FC東京へと移籍。ここで太田のプロ選手としての運命が大きく変わっていく。
 

FC東京時代のランコ ポポヴィッチ監督。Photo by AYANO MIURA(撮影:三浦彩乃)


 昨年(2022年)の加入時の会見にいた大友(健寿、前社長)さんや唐井(直、前ゼネラルマネージャー)さんも今日はいないが、大事な方がもうひとり。ポポさんが今年はいない。あらためてランコ ポポヴィッチ監督から受けた愛情がどのようなものだったのかを聞かせていただきたい──記者会見でこう訊ねると、太田は次のように答えた。
 
「ポポヴィッチ監督には、いまのプレースタイルの土台、武器となるセットプレーでしたりとか、クロスの部分をたくさん教わりました。ポポさんと出会ったのはぼくが24、25くらいのときだったと思うのですけれども、それまでの横浜FC、清水エスパルスではプレースキッカーとして蹴ることもなかったですし、自分のなかでもそことの接点は全然なかったんですね。キックの自信はありましたけど、チームにはすばらしいキッカーがたくさんいたなかで、ポポヴィッチ監督と出会い『とにかく自信をもって蹴ってみろ』と、言われた週の多摩川クラシコだったんですけど、等々力陸上競技場で川崎フロンターレ相手に直接フリーキックを決めることが出来て。
 本当に不思議なんですけど、若い選手にはそのひとつの成功体験がとても大きな自信になって、そのあとのフリーキックのゴールを増やせましたし。太田宏介と言えば、というイメージというか、そういうところにもポポさんの助言、アドバイスがあったからこそ、いまこうして長いキャリアを築けたと思っています。ポポさんだけでなく、たくさんの指導者の方にいろいろなアドバイスをいただいていまがあるので、みなさんに感謝したいです。
 フリーキックを決めたあとの、ポポさんとのハグ、そしてほっぺにされたチューはいまでも忘れません」
 

2015年5月2日、味の素スタジアムでの多摩川クラシコ。Photo by AYANO MIURA(撮影:三浦彩乃)


直接フリーキックでゴールを決めた。Photo by AYANO MIURA(撮影:三浦彩乃)


 2013シーズン、8月10日のJ1第20節。敵地で大久保嘉人と中村憲剛にゴールを許し1点ビハインドと追い込まれていた東京は、この太田のフリーキックでの初めてのゴールで同点に追いつき、2-2の引き分けで試合を終えることが出来た。長いプロ生活で、もっとも思い出深い試合は2015シーズン、味の素スタジアムでおこなわれた5月2日のJ1ファーストステージ第9節川崎フロンターレ戦。またも大久保のゴールで先制された東京だったが、太田の直接フリーキックで1-1の同点に追いつくと、試合終了も近い後半42分、フリーキックで武藤嘉紀のヘディングによるゴールをアシスト。これが決勝点となった。海外移籍を控えて心理的な圧力がかかっていたという武藤へのアシストを、太田は喜んでいた。
 

シンガポール開催ブラジル代表戦での日本代表集合写真。Photo by MAKOTO MIURA(撮影:三浦誠)


森重真人、小林悠と同時に出場していた。Photo by AYANO MIURA(撮影:三浦彩乃)


 日本代表に選ばれたのも東京時代。2014年10月14日には森重真人や小林悠とともにシンガポールでブラジル代表と対戦したこともある。ネイマールに4ゴールを決められたが、権田修一、長友佑都、武藤嘉紀といった東京勢もいて思い出深い試合だ。ちなみに武藤は小林との交代で後半7分から出場している。この一戦を含め、代表Aキャップは7。海外への移籍でフィテッセやパース グローリーにも所属した太田。やりきったという想いがあるのか、サッカー人生に思い残すことはないという。2019シーズンから2020シーズンにかけて名古屋グランパスに所属していた頃、35、6歳での引退を構想。2022シーズン終了時に、2023シーズンかぎりでの引退を決断した。
 
 2022年7月、ポポヴィッチ監督が指揮を執り、長谷川アーリアジャスールがプレーするFC町田ゼルビアに加入。この生まれ故郷のクラブは今年、黒田剛監督のもと、初のJ2優勝とJ1昇格に向けて邁進している。思えばJリーグにデビューした2006シーズンも、当時所属していた横浜FCはJ2優勝でJ1昇格を決めた。「町田で育って町田でサッカーを始めた自分が、こうして18年のキャリアを経て大好きな町田で現役を終えられる。このストーリーにとても運命を感じていますしなにより幸せです」、と太田。ハッピーエンドまであと6試合。野津田、町田GIONスタジアムでのホームゲームはあと2試合となった。まずは、10月8日におこなわれるJ2第38節ヴァンフォーレ甲府戦への出場が目標。「プレーヤーとしては1分でも長くピッチに立ちたいという想いは変わりません。残りの1カ月半、チームのためにやっていきたい」と言い、最後の炎を燃やすべく準備に取り組んでいる。ゴールに向けたラストスパートが始まった。
 

2012シーズンのACLで。東京時代、様々な経験を積んだ。Photo by AYANO MIURA(撮影:三浦彩乃)


渡邉千真と。Photo by AYANO MIURA(撮影:三浦彩乃)


左足が強烈な武器になった。Photo by AYANO MIURA(撮影:三浦彩乃)


◆記者会見終了後の囲み取材
 

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