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【インタビュー】 臼井幸平「2004年の横浜FCでのプレーが、今でも自分の中で一番好きです」……OB数珠つなぎ第3回・中編

 

かつて横浜FCでプレーしたハマブルー戦士に当時の思い出をいろいろ語っていただき、次に登場するOBも紹介していただいてOBの輪をどんどんつないでいく予定のこの企画。第3回は2002年から04年までプレーした臼井幸平さん。退団から現在までを語った前編に続き、この中編からはいよいよ横浜FC在籍時代を振り返っていただきます。また選手時代の写真はすべて臼井さんからご提供いただきました。

(聞き手/芥川和久、取材日/2023年12月7日)

 

 

▼ロベルト・カルロスを目指してサイドバックに

──ではいよいよ現役時代を振り返っていきます。まずはサッカーを始めたきっかけを教えてください。

「何ですかね?(笑) 生まれてすぐサッカーをやるって決めてたというか、幼稚園からサッカーが好きでボールを蹴ってました。ただ当時は小学校3年生くらいまでチームに入れなくて、3年生まで待って初めて部活に入ったんですけど」

 

──「きっかけ」といってもちょっと分からないという?

「逆に、ウチの親には『野球をやれ』って言われてました。姉ちゃんと兄ちゃんがいるんですけど、そっちはバスケをやってました。だけどサッカーをやるって決めてサッカーやってて、最初は『なんでサッカー?』みたいな感じでした(笑)」

 

──やっぱりめちゃめちゃ上手くてベルマーレのジュニアユースから声がかかることに?

「そんなことないですよ。当時、この地域の戸塚選抜っていうのがあって、それもABCと分かれてるんですけど、4年生のときは選抜に落ちて、5年生では受かったけどCで、6年でAに上がってみたいな流れでしたから、最初からめちゃくちゃ上手くてというわけじゃないです。マリノス(のジュニアユース)に落ちて、フリューゲルスに落ちて、最後にベルマーレに行って受かったという感じでした。技術はあったかもしれないですけど、小っちゃかったですし。6年生で身長が128cmぐらいしかなくて、今だったら相当小っちゃいんじゃないですかね。でもなんとかベルマーレのセレクションに受かった、みたいな流れです」

 

──どういうところが評価されたと思いますか?

「何で受かったか分からないんですけど、強いて言えば技術かなと。当時見てくれたのが後に横浜FCで監督をやられる足達勇輔さんで、本当にその足達さんが見出してくれたという感じでした」

 

──技術には自信がありましたか?

「ドリブルには自信があったんですけど、小っちゃかったのでフィジカルは全然なくて。ただその恩師の足達さんに『技術は大人になっても絶対に腐らないから。逆に大人になってからでは(身につけるには)遅いから』とすごく言われて、そこで本当にひたすらやったことが後につながったと思います。ベルマーレのジュニアユースではめちゃくちゃリフティングをやってて、ヒールとかつま先とか、肩とか、いろんな箇所でできるようになったのをすごく憶えてますね。それがすごく大事なことかなと思って、現在もここでスクール生に基礎として同じようにリフティングを教えてます」

 

──ベルマーレのジュニアユースからユース、そしてトップチームにも昇格していきますが、体はどれくらいから大きくなりましたか?

「高校2年くらいでした。それまで小さくて、(学年で)一番という選手じゃなかったと思いますけど、負けん気だけは強かったかな。当時、高2でサテライト選抜に選ばれてスペインに行ったのがすごく自信になりましたね。同い年で、ヴェルディだったりマリノスだったりフリューゲルスだったりの、同世代の代表クラスがいて、そのメンバーと一緒にできたというのがすごくプラスになりました。フリューゲルスには1個上で氏家(英行)くんがいて、でもヴェルディとマリノスはめちゃくちゃ強かったのでウチらの同世代ではなかなかプロに上がれなかったんじゃないかな。ベルマーレは3人くらいいましたけど」

 

──プロになろうと思っていたのはいつごろから?

「プロ(Jリーグ)ができたときですかね。当時ジュニアユースでしたけど、そのプロのリーグにジュビロとベルマーレが後から(94年に)参戦して、『自分もプロになりたい』と漠然と思うようになりました。プロになれたのは嬉しかったですけど、実は大学進学も考えていたりしました(笑)」

 

──プロ1年目はどんな思い出がありますか?

「デビュー戦のフリューゲルス戦(1998年9月26日)ですね。国立で、ラスト5分で出て勝ったんですよ。当時フリューゲルスにはゾノさん(前園真聖)とかサンパイオとか錚々たるメンバーがいて、そんな中で5分出て勝ったっていうのがすごく憶えてます」

 

──ベルマーレにも中田英寿さん、ホン・ミョンボさんと、こちらも錚々たるメンバーでは?

「中田ヒデさんはその前(7月)にペルージャに行っちゃったので。ちょうど自分が上がったときに半年くらい被って一緒に練習したくらいでした。まあミョンボさんはいて、GKに小島伸幸さん、あと代表に選ばれた人でいえば名塚善寛さん、呂比須(ワグナー)さんもいて」

 

──プロの壁みたいなところも感じましたか?

「ユースから上がって1年目で試合に出られたことはすごく自信になりました。今はプロに上がって1年目で試合に出るって難しいですけど。リーグ戦9試合と、天皇杯1試合。当時は試合数もそんなに多くなくて」

 

──ポジションはサイドバックで?

「プロになったのはボランチだったんです。ユースでは最初FWだったんですけど、2個下にめっちゃすごいのが入ってきてボランチに落とされて(笑)」

 

──そのすごいFWとは?

「小松原学。“消えた天才”で出てきます(笑)。まあ自分は小さかったし、プロでFWは難しかったでしょうね。それにボランチでもフィジカル面で、サイドバックに転向した方がいいんじゃないかという話をもらって。当時はブラジル代表のロベカル(ロベルト・カルロス)がすごかったので、そういう感じを目指したらどうかという話でサイドバックもやるようになって。そこから出場機会が増えたので、良かったかなと思います」

 

──プロ2年目の99年はリーグ戦で13試合に出場しました。

「フジタが撤退してベルマーレが崩壊して、若手中心になってレギュラーとしてやっていかなきゃいけないというときに、そこまで試合に出られなかったなという思いがあります。常に中心となってレギュラーで出るという感じではなかったですね」

 

▲懐かしそうに当時を思い出しながら語る臼井さん

 

 

▼[2-4-4]フォーメーションはやっててめちゃくちゃ面白かった

──そしてプロ3年目の2000年、リーグ戦出場3試合でベルマーレから満了を告げられます。

「まあ当時は正直、遊びのほうに走ってサッカーを疎かにしたなという印象がすごく強くて、しょうがなかったかなと。めちゃくちゃ悔いがありますよ。もっとサッカーのことを考えてやっていたらと。でもそれがあって、次の1年間があって、横浜FCから気持ちを入れ替えてできるようになったんじゃないかなと思います。実は、そのときもう引退しようと思ってたんです」

 

──横浜FCに入るのが2002年ですから、1年間の空白がありますね。

「鳶職とか美容師にチャレンジしました。でも、美容師はやると心に決めてたんですけど、一回体験に行って、合わないなと思って一日でやめました(笑)。今まで外で動いてたのに、室内で立って最初はずっと掃き掃除ってところで『あー、無理だ』と思って。鳶職のほうは地元でずっと続けてやってました。やっぱり体を動かすのが性に合ってたかなと思いますね。でも、ちょうど日韓ワールドカップの直前で、同世代が活躍してるのをテレビで見て、やっぱりやりたいなという思いが強くなって」

 

──そこから横浜FCに入るのは?

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