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【無料記事】【インタビュー】 臼井幸平「Jリーガーのセカンドキャリアの受け皿になれたら」……OB数珠つなぎ第3回・前編

 

笑っていいとも!方式でOBの輪をつないでいくインタビュー企画『OB数珠つなぎ』。第2回の中島崇典さんにご紹介いただいて今回登場するのは、2002年に横浜FCに加入して04年までプレーした臼井幸平さんです。

臼井さんは横浜市泉区出身で、1998年に湘南(当時は平塚)ベルマーレでプロ入り。99年にJ2へ降格し、2000年に湘南を契約満了となりました。1年の浪人の後に横浜FCに加入し、05年には山形へ移籍。08年に再び湘南へと戻り、09年にはJ1昇格を果たします。しかし1年でJ2へと降格すると、11年をもって再び湘南と契約満了となり、12年は栃木で半年間プレーするもののその年で現役引退を決めました。現在は地元の横浜市泉区でF・T・A・R フットアールサッカースクールの代表を務め、後進の育成にあたっています。

現役引退から現在までを語った前編は無料公開。中編はプロ入りから横浜FC時代までを振り返ってもらい、後編は山形に移籍後と、読者の方からの質問にもお答えいただいてますのでお楽しみに。

(聞き手/芥川和久、取材日/2023年12月7日)

 

 

▼絶対にコーチをやることはないと思ってました(笑)

──臼井さんが現役を引退されたのが2012年。その年に湘南ベルマーレから栃木SCに移籍されていますね。

「はい。その前の年は湘南が再びJ2に落ちて1年目で、監督がソリさん(反町康治)からチョウさん(曺貴裁)に代わるときでした。ちょうどそのタイミングで湘南を契約満了になって、そのときも引退を考えたんですけど、もう1年やろうという思いで栃木に行きました」

 

──栃木には誰かから誘われて?

「山形でGKコーチをやっていた南省吾さんが当時は栃木の強化部長をやっていて、連絡を受けました。『どうだ?』って言われて、『もう一年やりたいです』と答えて。もう33歳でしたし、先のことも考えながらどこまでできるか継続しながらというような思いでやっていましたけど、やっぱり膝の怪我の具合が良くなくて、開幕戦に出てすぐ怪我という形でシーズンが流れていって……。途中でクラブに対する不満も少し出てきてしまって、本当はSC相模原に移籍する予定で、1年契約を途中で解除してもらったんです。ただ、最終的に相模原と契約はしませんでした。『いいよ』という話ではあったんですけど、金銭的な部分とかも考えたところで、もう引退しようと決めました」

 

──J3は2014年にスタートですし、相模原は当時まだ地域リーグですね(2012年に全国地域サッカーリーグ決勝大会で優勝しJFL昇格)。プロとしては厳しい条件だったと?

「そうですね(笑)。まあ金銭的な部分と、怪我もあったし、もともとベルマーレで切られたら引退しようという思いもあったので、それで引退しました」

 

──決断したときは、もうやりきったかなという思いだったでしょうか?

「そうですね。7月に栃木の契約を解除して、12月に引退を発表して、翌年の1月にベルマーレで引退試合みたいなのがあったんですよね。ベルマーレ創立20周年のイベントとして、中田英寿さんとかかつて湘南でプレーした選手が集まったんですけど、そこで最初にその年引退する数名も呼ばれて、引退試合をしていただいたみたいな感じでした(笑)」


▲ベルマーレ創立20周年記念試合「Re-member」の様子

 

──セカンドキャリアは以前から考えてらっしゃったんですか?

「正直、全然決めてなかったです。横浜FCに入る前に1年間浪人したときに、何もすることがなくて、コーチっていうタイプでもないなっていう感じで、決めてなかったのが事実ですね」

 

──コーチに向かないなと自分で思ったのは?

「現役時代から、声を出してリーダーシップを発揮してっていうタイプじゃなかったですし(笑)、だから絶対にコーチをやることはないと思ってました」

 

▲大きな声をかけて子供たちを盛り上げる臼井さん

 

──それが現在は指導者をやられているのは? もちろんスクールの代表というのは実業家としての面もあるのでまた違うのかなとも思いますが。

「最初は、自分にできることもあまりなくて、サッカー以外になかったので、やっぱりサッカーを生かしてスクールを始めようと。どうせやるんだったら地元で貢献していきたいという思いと、地元から良い選手を出したいなと思って。始めたのは2013年です。最初はこの場所も土で、空き地だったんですよ。何もない、雑草しか生えてないような、赤土でドロドロのところからスタートして。最初はスクール生も1人とか、低学年3人とかと高学年1人とか」

 

──前回登場したOBの中島崇典さんも、最初はスクール生1人だったと話していました。

「やっぱりだいたいそういうスタートになるんでしょうね(笑)。まあそこからスタートして3カ月くらいは変わらずで」

 

──ずっとこの場所で?

「ここと、相模原でも活動してて、ここを週1回、相模原も週1回みたいな感じでスタートしました。当時は照明もなかったのが、裏にある電気屋さんが、わざわざウチのために3灯立ててくれたんですよ。すごくありがたい話でしたね。当時、天然芝を植えようと思って、自分で掘って一面作ったんですけど、めちゃくちゃ大変で管理も大変で、結局人工芝にして(笑)。徐々にスクール生も増えてはいったんですけど、けっこう大変な下積みだったかなと思いますね。募集もビラを作って配ったり、ポストに入れていったり、そういうことも自分で初めてやって」

 

──今は選手のスクールもたくさんある状況ですが、当時はどうでしたか?

「近隣に小学生の強いチームがあって、そこがスクールをやっているという形はありましたが、自分はプロでやってきて『これが必要だ』とか、『こうやった方が良い』ということを伝えていこうと思っていました。特科クラスみたいな感じでやっていこうと。そういうところはナカジ(中島崇典)にも聞かれて、参考にしてくれたと思いますけど(笑)」

 

──中島さんは「臼井さんを手伝ったのが自分がスクールを始めるきっかけになった」と話していました。

「そうなんだ(笑)。ナカジは最初はACeL」(エシェル)というブランドを立ち上げて、スネ当てとかソックスとかを売ってて、ウチでも商品を置いたりとかもしてました。当時、スペイン遠征ができることになって、でも自分が行けないから誰か監督を立てないといけないってことになって、昔から仲が良かったナカジに行ってもらったんですけど」

 

▲優しく見守り、アドバイスを送る

 

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