HAMABLUE PRESS

【インタビュー】 臼井幸平「三ツ沢でサポーターから起こった『臼井だけ!』というコールが、今だに心の中に響いてる」……OB数珠つなぎ第3回・後編

 

かつて横浜FCでプレーしたハマブルー戦士に当時の思い出をいろいろ語っていただき、次に登場するOBも紹介していただいてOBの輪をどんどんつないでいく予定のこの企画。第3回は2002年から04年までプレーした臼井幸平さん。後編は横浜FCから移籍して以降と、読者からの質問にお答えいただいています。また選手時代の写真はすべて臼井さんからご提供いただきました。

(聞き手/芥川和久、取材日/2023年12月7日)

 

▼横浜FCが2006年に昇格したのは、『くっそ〜』と思いました(笑)

──山形は2005年は鈴木淳さんが監督でしたね。

「すごく良い監督でした。伸び伸びやらせてくれましたし、期待してもらえていたので、使ってもらえたのもそうですけど、やっぱりやりやすかった。まあJ1に上がれなかったですけど、移籍して良かったという思いはありました。個人の評価としては上がっていったと思うので、良かったと思います」

 

──2006年は樋口靖洋さんが山形の監督に就任。ほかに横浜FC絡みだと、選手では渡辺匠さんが入ってきたりします。

「そうですね。キタ(北村知隆)も2007年に来て一緒にやってます。樋口さんと四中高(四日市中央工業高校)つながりですかね(笑)。ジャンボは山形に行ってないんでしたっけ?」

 

──ジャンさんは2011年に山形でプレーしてて、2007年は柏、そのあと福岡ですね。

「じゃ全然すれ違いどころじゃないか(笑)。まあ樋口さんもやっぱりすごく良くて、その辺の年は監督に恵まれたっていう感じですね。使ってもらえるというのはやっぱり感謝しなきゃいけないかなと思います」

 

──山形で充実していた一方で、横浜FCが2006年に昇格したときはどんな思いでいましたか?

「まじか……って感じでしたよ(笑)。やっぱりJ1を目標に動いていたので、横浜FCが先に上がって、『くっそ〜』という思いでしたし(笑)、サッカーって分からないなと。まあでも、個人の評価としては下がったわけではなくて、徐々に上がっていたと思うんですよね。佐々木勇人とのコンビで、いろんな人に『山形の右サイドはストロングだね』と言われるようになったし、対戦相手の知ってる選手が『ミーティングでお前のとこをけっこうポイントに置いてるぞ』みたいなこともよく言われましたし。ただ、やっぱり悔しかったですけどね」

 

▲山形では佐々木勇人さんとのコンビで活躍した

 

──そして2008年に再び湘南に戻りますが、こちらの経緯は?

「単純にオファーを受けてというところですけど、当時仙台からもオファーを受けていたんです。仙台もJ1に上がれるかどうかという感じで、惹かれるものはあったんですけど、山形と仙台ってめちゃくちゃライバル意識があって、絶対に移籍はダメだみたいな暗黙の了解があって。当時、永井篤志さんと一緒に仙台からオファーを受けてて、『どうします?』って言ったら、『いや、行けないだろ』って話になって。でも、蓋を開けたらあの人、仙台に行ってたんですけど(笑)」

 

──永井篤志さんがベガルタに行ったのはその1年前ですね。

「そうだった(笑)。まあ、次の年にベルマーレからオファーが来たときに、そろそろ地元に、神奈川に帰りたいなと思って。山形はめちゃくちゃ寒いし、(プレシーズンに)毎年1カ月間合宿しなきゃいけないし、そこは東北とか北海道の選手ってすごく大変だと思うんですよね。向こうで練習できないから、キャンプ地で本当に缶詰状態でやるんで、けっこうキツかったというのがすごくありました。でも人の温かさ、サポーターの温かさは、やっぱり地方のほうが温かいなっていう印象がありますよね」

 

──湘南から評価されて、もちろん湘南もJ1を目指せるチームというところもありましたか?

「もちろんその思いもありましたし、あとはベルマーレでの3年間でサポーターにそんなに良い選手だと思われてないんじゃないかなという思いもありました。それを覆したいし、もう一度ベルマーレを、自分がJ2に落とした年からずっと上がれていなかったので、自分がJ1に上げたいという思いもありました。それで戻ったんですけど、その戻った年に山形が昇格するという(笑)。またやっぱり『くっそ〜』という思いをして、『そういう運命かな』みたいな気もして、すごい悔しかったですね。自分はJ1には上がれない。そう思ってたらベルマーレも2009年に昇格を決めたんですけど、まあいろんな巡り合わせがあって、横浜FCも山形も自分がいたらJ1に上がってないかもしれないし、分からないことではありますけど、それも選手時代の一つの思い出になってますね」

 

──2008年の湘南は菅野将晃監督の2年目ですね。

「そうですね。菅野さんに誘ってもらったんですけど、たぶん菅野さんとしても思ったより……と思ったんじゃないかなって思う年でした。試合では使ってもらってたんですけど、自分としても横浜FCや山形にいたときほどパンチのある仕事ができなくて、悔しいなと思った年でした」

 

──ただチームとしては昇格争いに絡んで、つまりは山形と昇格争いをしたわけですね。

「はい。秋に山形のホームに行った試合では、途中で怪我したんです。『くっそ〜』って思って、しかも負けた。それがラスト3試合というところで、山形が昇格にぐっと近づいたのをすごく憶えてます。山形でもブーイングをかなり受けて、まあそれも山形で評価されてたということかなと思って(笑)」

 

 

▼反町監督には、まさに『上げる監督』という細かさがあった

──そして2009年、湘南は反町康治さんが監督になります。

「そこがポイントですよね。ソリさんは自分が最初にプロに上がったときに(選手で)いたんですよ。選手で絡んだ印象が強かったんですけど、監督としてはすごく厳しくて、最初は外される感じだったんですよね。J1を目標にしてずっと試合に出続けてきた中で、外されるかもしれないというレギュラー争いの危機感を感じました。そのおかげでもう一回、闘争心がわいたというか。横浜FCではカードの裏に『気持ちプレーヤー』とか書いてて(笑)、『気持ちでプレーするぞ』というアピールをしてたんですけど、それをもう一回思い出したというか」

 

──『暴れん坊』ではなくて?

「それは湘南ですね(笑)。ソリさんがいて、チョウさん(曺貴裁)がユースから上がってきてコーチになって、すごく良かった。選手としてもう一回伸びた年になりました。ソリさんは新潟をJ2からJ1に上げてたし、まさに『上げる監督』という感じの細かさをめちゃくちゃ憶えてますね。一個一個が細かいし、やっぱりぬるいプレーは許さないし、責任感をすごく植え付けられました。そこでそのプレーをするんだったらもう使わない、みたいな感じで」

 

──上げる監督の細かさというのは?

「それまで選手も監督もみんなプロとして、一人一人子供じゃなくて大人としての扱いですよね。何をしようがプレーで表してくれれば、たとえば普段遊ぼうが問題ないよというところなんですけど、そういうゆるさがプレーにちょっと出たときでも、みんな我慢強く使ってくれてたんですよね。でも、そういうプレーをした瞬間にいきなり外されるような、練習とかでもそこを指摘されるし、久々に毎回のトレーニングに刺激を受けるような感覚でした。それぞれ監督の良さがあると思うから、何が良いか分からないですけど、自分としてはそういった厳しさをもう一度受けたことで、今までちょっとわがままになっていたな、試合に出ててちょっとゆるい気持ちになっていたなというのをもう一回思い出させてくれた。セットプレーとかめちゃくちゃ細かいのがあって、オランダとかリバプールとかいろんな最先端のセットプレーの映像とかを見て、『これをやるから』とか。『セットプレーが3割を占める』とか、そういうサッカーの先端を突いてくる。『今、海外はこれだから』、『これが日本の当たり前になるぞ』とか、そういった言葉でもなるほどなと思うことがすごく多かったですね」

 

──2009年は50試合も出てるんですね。18チームが3回総当たりで全51試合だから、1試合休んだだけで、4得点を記録しています。

「累積(警告で出場停止)以外は全部出ましたから。ずっとほぼサイドバックで使ってもらって、チームも3位でJ1昇格を決めました。当時はセレッソがめちゃくちゃ強くて、香川真司、乾貴士、清武弘嗣がいて。でもセレッソとの相性は悪くなかった気がします。最初はけっこう独走してたんですけど、途中で4連敗とか挟んで順位が落ちていっちゃって、やばいやばい、また上がれないわと思ってたところ、今はベルマーレの社長の坂本紘司さんがロスタイムで劇的ゴールを何本も決めて……。やっぱりあの年は本当に面白かったですね」

 

──後に横浜FCに来る田原豊さんもいらっしゃいましたね。

「そうですね。豊は問題児だったと思いますけど、俺とは気が合ってめちゃくちゃ仲良くて(笑)。とにかくプレーは規格外で、これから代表を背負っていくっていうくらいの期待を背負ってたんだけど、まあ大成しなかったのはメンタルとかプライベートの部分でしょう(笑)。でもやっぱりピッチ内ではすごかったですよ。1対1とか外すんですよね。普通の1対1は外すのに、めちゃくちゃ難しいシュートを決めたりとか。やっぱり体は強いから、ジャンボもそうですけどゴール前で相手をドンって押さえて、シンプルにドンって落としてゴール近くからシュートを打って決めるっていうのが、ベルマーレでも横浜FCでも何本もあって。やっぱりこういうポストプレーヤーがいたら強いなと思って。デカくて、点を取れてっていうのは大きいと、すごく思いましたね。今も自分のところのジュニアユースで、デカくてポストできてっていう子がいればって、いつも思います(笑)」

 

──そういうフィジカルエリートはJの下部組織が持っていってしまうのでは?

「そうですね。今、Jリーグの育成、下部組織でも、お母さんとか保護者の身長も全部チェックするんですよ。それで大体分かるところもあるので。やっぱり大きくなるっていうのも一つ才能なんですよね。自分らの時代は技術ばっかりでしたけど、今はやっぱりデカくて上手い、もうそういう時代になってきてると思います」

 

──そして2010年、臼井さんとしても11年ぶりに辿り着いたJ1での戦いになりました。

「でも3勝しかできないで、勝点16に終わって……。やっぱりJ1という舞台の違いがありました。J2だとここの距離だったらふかしてたシュートを決めてくる。すごい差があるかと言ったらそうじゃないんですけど、『ここの範囲や精度が全然違う』ってところで、やっぱり一個一個違うなっていう。差がないようでめちゃくちゃ差があるというのをすごく感じました」

 

2010年。J1に昇格して鹿島アントラーズと個人としては12年ぶりに戦った

 

──一つ一つのプレーを見たらマイナス1くらいの差が、90分の中でいろんなところで起きてて、試合を通したらマイナス100くらいになっているみたいな?

「本当にそうです。大した差はないっていうところが、積もり積もってこんな差があるんだってことを気づかされた年になりました。ただ、プレーの一つ一つを取って見たらちょっとしか違わないから、『やれなくもない』っていう思いもすごくあったんですけど、やっぱり負けることによって全部マイナスに変わっていくし、勝てないっていう流れとかもあって。昇格するときはやっぱり『これが昇格する雰囲気』っていうのを感じましたし、『一体感』とかよく言われるものを初めて感じたんですね。同じように、降格もベルマーレで2回やりましたけど、やっぱり降格するべくしてしてるっていう雰囲気でしたよね」

 

──最初の降格はユースからプロに上がって数年で、そのときに比べれば選手としての自覚も全然違う年齢だったと思いますし、感じたことはまた違いましたか?

「そうですね。気持ちとしてはサッカーと向き合ってJ1でプレーにすることはできたんですけど、もっと向き合って、もっとベルマーレの最初から向き合って、最初の遊んでた時期にももっとできていれば、2回目は細かいところでもっと変わってたんだろうなというのはありますね。今の子ってすごいから、サッカーの練習が終わってまたケアして、自分の足りないところをトレーニングしてますけど、そういう気持ちというのがやっぱり薄かったのかなって思いますし。若いうちというのがすごく大事な気がします」

 

──そして再び2011年はJ2で、31試合に出場して3得点。反町監督最後の年でもありました。

「このころはもう膝の怪我もありましたし、当時はジャーンとかアジエルがスーパーでしたけど、世代交代もあって……それこそ(遠藤)航が出てきて活躍し始めたりとかして。次世代のサイドバックとして鎌田翔馬も出てきて、当時彼は年代別代表とかも入ってたりしましたし、翔馬が脅かしてきたのと怪我もあって出られない試合もちょこちょこって出てきて。ただ31試合に出たし、サイドバックとして数字的にはそこまで悪いものではないのかなと思うんですけど、やっぱり世代交代ですね」

 

──膝の状態はかなり悪かったのですか?

「思いきりがなくなるというか、歳をとって経験値は増してるんですけど、思い切りの良さとかダイナミックなプレーというのは減りましたよね。迷いが、経験による迷いというか、『このときってだいたいこうだよな』みたいな、若手との思考の違いもあって、思いきりの良さがなくなっていっちゃったんじゃないかと思います」

 

──ほかのチームで一緒にプレーした選手で、後に横浜FCに加入する人の思い出などは?

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