沖縄に住めたのは最高の経験だった。ほら、比嘉(祐介)とかずっとテンション高いでしょ。まさに『なんくるないさ』(笑) [金井貢史インタビュー(前編) / トリコロールを纏った男たち]
【金井貢史インタビュー(前編)】
インタビュー・文:藤井 雅彦
新年第一弾の公開記事は、トリコロールの歴史を彩った戦士の声だ。
昨年12月現役引退を発表した金井貢史。
マリノスのアカデミー出身で2008年から2012年と2016年から2018年までトップチームに在籍したバイプレーヤーである。
今回、ヨコハマエクスプレスでは引退記念スペシャルインタビューを実施。
前編では、プロキャリア16年間を振り返り、引退の経緯、さらには小学校からの盟友である水沼宏太について熱く語ってもらった。
沖縄に住めたのは最高の経験だった。ほら、比嘉(祐介)とかずっとテンション高いでしょ。まさに『なんくるないさ』というやつで(笑)
――2023年12月1日に現役引退を発表しました。少し時間が経って、今の心境はいかがですか?
「ようやく子どもたちと誠心誠意向き合える。子どもに対して全力を注げる。そういった思いが一番強いです。やっと父親になれる、という感じですかね。
現役のうちは土日のどちらかに必ず試合がありました。キャリア終盤はJ2やJ3でプレーして、カテゴリー的に日曜日のゲームが多い。そうすると試合前日の土曜日も練習があるので、子どもたちに時間を割くことができなかった。
平日に子どもとの時間を作ろうとしても、今度は学校との兼ね合いが出てくるので無理はできません。どうしてもサッカー中心で考える自分がいたので、子どもファーストではなかったと思う」
――SNSには家族でのハッピーな投稿が多いような気がします。
「子どもたちのためになるべくフットワーク軽くいろいろなところに行っているタイプ。それでも、やっぱり明日の練習に疲れを残したくないという気持ちが出てくるし、怪我をした時に後悔したくない。だからエネルギーをセーブしている自分がいました。そこは本当にかわいそうだった。
今はそれを考えず、100%のエネルギーで子どもたちと向き合っています。最近は朝6時に起きてサッカーの自主練習に付き合っていて、リフティングが3回しかできなかった子どもに教え始めたら、ようやく10回できるようになった(笑)」
――2008年にプロキャリアをスタートさせて16年間。数多くの移籍を経験しました。振り返っていかがですか?
「8チームでサッカーをやって、出戻りもあるので移籍は合計10回経験しました。そのすべてに家族が付き添ってきてくれて、一緒に戦ってくれた。それは当たり前のことではないと思うので、だからこそ結果を残さないといけないと強く自覚していたつもり。『全国各地に友だちができた』とポジティブに言ってくれる家族に感謝です。
最初に引退が頭をよぎったのは、2022年の終わりに琉球FCをクビになった時かな。必要とされなくなった選手にプロとしての価値はないですし、自分のワガママだけでサッカーを続けるのは家族に迷惑をかけてしまうので。でも沖縄に住めたのは本当に良い経験でした。最高だった」
――沖縄の良さは?
「単純だけど、1年中ずっと暖かくて、海が綺麗だよね。なんか当たり前のことを言っているけど、すごく重要なこと。
オフの日や子どもの学校が終わってから遊ぶ時も海が多い。それって選手にとってクールダウンの意味もある。気候が温暖だから、練習前は入念にストレッチをやらなくても大丈夫。寒かったら怪我しないように体を温めるけど、その必要性があまりない。だから筋肉が張ることも少なかったし、関節の調子も良かった。
それから日常で目にする景色が海外みたいで、すごく気分が良い。ランニングするのも海沿いばかりで、気持ちがリフレッシュする。食事をするにしてもお店にはだいたい沖縄民謡が流れていて、自然とテンションが上がる。
小さい悩みはどうでもよくなるんだよね。ほら、比嘉(祐介)とかずっとテンション高いでしょ。まさに『なんくるないさ』というやつで(笑)」
やれる自信は今でもある。ただ、それは自分が持っている自信であって、周りからの評価とは別。必要とされるか、されないかが一番大事。
――キャリア最後のチームはカマタマーレ讃岐でした。初めてJ3というカテゴリーでプレーしたことも含めて、どのような経験になりましたか?
「讃岐はすごく若いチーム。僕が最年長だったので、自分のことだけでなくチーム全体を考えることも求められていた。周りと比べて給料も高かったと思うので、そういった部分での役割を課せられるのは当然のこと。
本当は、琉球で契約満了になった時に引退しようかなと思っていた。そのタイミングで昔から親交のある強化部の竹内彬さんが熱心に声をかけてくれて、もう一度頑張ってみようと決めました」
――リーグ戦16試合に出場しました。シーズン途中からは怪我もあったとか。
「もともと足首を痛めていた影響もあってなのか、8月に両膝が痛くなってきた。最初はケアをして、それでも痛ければ注射を打ってプレーしていたんだけど、どんどん痛みが増してきて……。それで10月にしっかり検査したら左膝の軟骨が剥がれていた。タニくん(谷口博之)もこの怪我で苦しんだのを知っていましたし、なかなか本来のパフォーマンスを出すのが難しかった。
でも怪我が理由で引退するわけではありません。やれる自信は今でもある。ただ、それは自分が持っている自信であって、周りからの評価とは別。必要とされるか、されないかが一番大事だと思います」
――契約満了だった、と。
「そうです。また選手として必要とされなくなって、今度は自分の価値を考えました。嫁には『サッカー選手を続けられるなら続けてほしい』と言われたけれど、次の3月に一番下の子どもが小学校に上がる。だから引っ越してどこかの土地に腰を落ち着けるなら今が一番いいタイミング。これまで自分中心で家族に迷惑をかけてきたので、そろそろ家族中心に考えなければいけない時期でしょう」
――プロサッカー選手としての人生をやり切った?
「讃岐ではあまり試合に出られなかったので、悔しさがまったくないといったら嘘になるかな。
ただ、それ以上に33歳でベテラン扱いされるのはあまり楽しくなかった(苦笑)。グラウンドに立ったら年齢は関係ないし、自分は年長者でも一番上手くなりたいと思ってサッカーをやっていたつもり。だから若い選手たちにはもっとギラギラしてほしい。
試合にあまり出ていない立場で彼らに何かを言うのは、やっぱり説得力がない。今の時代のコたちは言い過ぎても縮こまってしまうし、そのあたりのモヤモヤを抱えながらやっていた。讃岐は素晴らしいチームで、これから大きくなっていける可能性を秘めたクラブ。でも実際には上のカテゴリーのチームが存在するわけだから、今に満足せず野心を持って毎日取り組むべきだなと思う」
――SNSで発信していた“#ギラギラしてこーぜ”ですね?
「そういった点において、マリノスがどれだけ恵まれているか身に染みて感じるよ。場所がマリノスタウンでも新横浜でも、どこで練習していても人間は変わらない。その人から得られるものが多い。だから昔も今もビッグクラブなんだよね。
例えば、僕は(中澤)佑二さんの様子をずっと観察していた。食堂での食事ひとつとっても、筋トレのメニューでも、周りとは意識がまったく違う。同じことはできません(笑)。でも、真似しようと思うだけでも違うと思うから。
今の若いコたちは先輩と食事に行く機会も少ないよね。それはすごくもったいない。二日酔いになるまで酒を飲めとは言わないけれど、ご飯に連れていってもらって何気ない会話をするだけでも意味がある。みんなにもっとギラギラしてほしい(笑)」
誰よりも宏太への思いはある。だってエネルギー源だもん。あいつはオレのガソリン。ちょっと活躍しすぎだけど(笑)。
―-では現役生活中、最も影響を受けた選手の名前をひとり挙げるとすれば?
「それは間違いなく(水沼)宏太でしょう。小学校から一緒にサッカーをやって、ずっと隣にあいつがいた。
あざみのFCでは同じFWで、あいつが3点取るなら、オレは4点、5点、6点取りたいと思ってやっていた。ジュニアユースでも同じだったな。あいつがひとつの基準で、重要なものさしでした」
――ちなみにどちらのほうが多く点を取っていた?
「それは間違いなくオレ。あいつのクロスから決めたりしていたから。宏太の周りを動いて、確実にオレのほうが点を取っていた。それが自慢。絶対にオレだよ(笑)」
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