「ゼルビアTimes」郡司聡

【大東京書簡】第六信『悔しいが、礼を述べる』海江田(24.4.11)

■もし、サッカーを観て何も感じなくなったら

知り合いの編集者から薦められた『中年の本棚』(荻原魚雷著/紀伊國屋書店)がとても面白かった。著者は古書界隈に詳しい、高円寺在住のライター、エッセイストである。

〈わたしの中年の本欄は、気力、体力や好奇心の衰えをかんじつつ、行き当たりばったりに手にした書物の軌跡ともいえる。あまりにもとっちらかりすぎて、どこに向かっているのか、自分でもわからない。
頂をめくると、未知の領域が広がっていて、読めば読むほど混乱する〉(「四十初惑」考)

〈中年になるにつれ、見るもの聞くものすべて新鮮で、興奮する時期が過ぎ去り、コレクションを充実させる喜びや新しい作品に触れたときの感激も薄れ、何をやっても徒労感をおぼえることが増えてくる。
趣味の洗練という方向にも限界がある。マニアックになればなるほど、そのおもしろさが伝わる人も少なくなる。さらに追打ちをかけるように、謎や引っかかりのない、平板でわかりやすいものばかり求められる風潮が蔓延している。
上の世代の猛者には知識や経験でかなわず、下の世代の好奇心や行動力にもかなわない。
最近、同世代のライターと飲むたびにそんな愚痴をこばしてばかりだ〉(サブカル中年の話)

〈中年は行き詰まる。なぜ行き詰まるのだろうか。
四十代にはいったころから、遊ぶことすら、面倒くさくおもえることが増えた。
無理をすれば、かならずツケがまわってくることは中年の入り口あたりですでに学んだ。お金にも時間にも体力にも限りがある。だから何か新しいことをはじめようとおもったら、別の何かをやめなくてはならない。
まず仕事をして、余った時問に何をするかと考えるようになった。しかし趣味なんてものは、我を忘れるくらいのめりこまないとおもしろくないのである〉(「フォーティーズ・クライシス」の研究)

〈世の中の狭さだけでなく、多くの中年は自分自身の限界みたいなものも痛感している。

今の自分の人生、というか、生活は日々の積み重ねの結果にすぎない。中年になって以来、わたしはこの先、奇跡みたいなことが起きて、人生が劇的に変わるとは考えられなくなった。食べすぎればお腹が出てくるし、飲みすぎれば二日酔いになる。無理をすれば体調を崩す。宝くじは当たらない(買ってない)。叶うかどうかわからない望みを持たなくなり、無茶もしなくなった。人生には小説みたいなことは起こらない。
だから小説を読んでも熱中できなくなったのだろうか。そうかもしれない〉(中年の文学)

こうした自身の変化に直面する著者は、本棚から中年関連書を引っ張り出し、ユーモラスな語り口で考察を展開する。言葉の主は野村克也、吉田豪、大槻ケンヂ、谷川浩司、ジェーン・スー、色川武大、中村光夫、尾崎一雄、神足裕司、酒井順子など多種多彩だ。

現状に対し、無理には抗わない。肩にまったく力が入ってない。やんわりと肯定することが多い。ざっくりした言い方をすると、中年への処方箋ということになろうか。

とりわけいいなと思ったのが、「“世の中とうまくやってけないけどなんとか生きてる” 先輩」の章。題材は入江喜和の『たそがれたかこ』(講談社)という漫画だ。

〈わかっていてもできないことがある。それがわからない人がいる。ちゃんとした大人ほど、できない人の気持がわからない。
正しさを盲信する人は、世の中の多くの人にとって健全とされる生き方からはみだしてしまう人を矯正、もしくは排除しようとする。
「“世の中とうまくやってけないけどなんとか生きてる” 先輩」のたかこは、自分自身もそんな大人の常識に苦しめられた過去がある。娘を守るために、たかこは自分を変える決心をする。
それにしても「“世の中とうまくやってけないけどなんとか生きてる” 先輩」というのは、いい言葉だなとおもった。世の中の役に立っているわけではないが、そういう人がいると、自分も大丈夫かもとすこし気が楽になる〉

年齢を問わず、ふっと心が動いた人は本書を手に取ってみては。つくづく、人を介して自分のアンテナに引っかかってこない本と出合えるのはありがたい。後藤さんと郡司さんに合うかどうかは、ちょっとわからないな。

(残り 1241文字/全文: 2944文字)

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