You’ll Never Walk Alone Magazine「ユルマガ」

石川直宏が偽らざる今の本音を語る 42歳の覚悟とある決断

 

 1993年5月15日、一人のサッカー少年は国立競技場の観客席でJリーグの誕生を見届けた。まばゆいカクテルライトに照らされたピッチで、観衆を沸かせる緑の背番号11に釘付けとなった。帰宅してからも父親を捕まえては「あのね、カズはね」と、あきれられるほど話をした。それが、12歳になった3日後の話だった。

 

 それから30年の月日が経過しようとしている。あの日から「オレ、カズみたいになる」が口癖だった少年は、夢をかなえてサッカー選手となった。2000年のプロデビュー戦は、あの国立が舞台となった。そこから17年にユニホームを脱ぐまで18年間に及ぶ現役生活を過ごした。

 

 

 そして、石川直宏は、姿を変えた思い出の地に立っている――。夢への扉を開いた国立で、新たな願いを胸に抱いて。

 

 現役時代からファンとの対話を重視してきた。小平グラウンドのファンサービスエリアで時間を掛けて一人ひとりに対応してきた。あまりに丁寧に受け答えをするから次々と他の選手に抜かされていく。どんなに疲れていても、毎日のようにそれを繰り返していた。SNSの世界でも、そのスタンスは変わらなかった。

 

「姿勢は変わらないよ。そこはずっと変わらず大事にしていきたい部分だから」

 

 コメントを一つひとつ読み、意見交換が必要なら本音でぶつかってきた。引退後に就いたクラブコミュニケーターの仕事としても積極的に取り組んできた。そのなかで、今年2月から繰り返されてきた一連のエンブレム変更に関する動画配信や、発信においてクラブと、ファン、サポーターとの間に入って架け橋になろうとするナオの姿があった。

 

 その過程で、ナオ自身がこだわっていたのは膝をつき合わせての対話だった。だが、公式の場としてセッティングすることは、さまざまな観点で実現には至らなかった。思いを届け切ったとは本人も思っていない。

 

 

 だからこそ、ナオに今伝えたいことを聞いた。

 

FC東京には、いろんな関わり方をしている人たちがいる。そういう人たちと共に一体感を持って突き進んでいく。そのつなぎ役になろうとしてきたし、その思いを持っていまの立場に就いた。何を持って一体感だというかは難しい。一体感をつくろうと思っても、それは簡単には生まれない。クラブのビジョンであったり、目指す方向性だったり、お互いがお互いをリスペクトし合いながらクラブのためにいろんな意見を言い合って議論して進んでいくことは自分も求めていたことだった。今後に向けていろんな人が入れ替わっていったなかでもクラブは在り続ける。25周年を前に、そうした議論をざっくばらんに伝え合いながらやっていきたいというのが本心。そこに嘘偽りがないようにしたいし、本音をさらけ出せるような関係をつくっていきたい。その一体感をつくっていくために関係性の構築がより重要になってくる。その思いは(クラブコミュニケーター)就任当初から変わらない。ただ、状況は変わっているから、その状況に対してしっかり変化、対応していきたい。ただ、根本(直接対話というやり方)は変えたくないし、大事にしていきたい。そう思いながらも、それができていない自分への腹立たしさもある。でも、できていることもあるし、モヤモヤ感というか、試行錯誤は続いているのが正直なところ。回り回って言えるのは、このクラブがどう良くなっていくか。関わることで、幸せになることがベスト。結果も含めてね」

 

 晴れない気持ちを抱えながらも、指針にしてきたことがあるという。引退直後、恩師・長澤徹(現・京都サンガコーチ)から贈られた言葉だ。『ナオはフットボールで幸せにならなきゃいけない――』。

 

「それを思い返すんだよね、いつも。そこが自分にとって行き着くところで、そこを基準にやっていきたいから」

 

 その先には『フットボールで自分も、関わる人も幸せになる』と続く。だからこそ、現状の「もどかしさがある」につながるという。

 

「現状で言うと、それが幸せじゃない人もいる。不幸せにさせることを考えてやっているわけじゃないんだけど、実際にそうなってしまっているギャップとか、そこって直接話してみないと分からないこともある。その基準を持てていなかった部分でも、もどかしさはある。そういう人を置いてけぼりにしたり、排除して進んでいこうというわけじゃない、オレは。どう最適解を導き出しながらできるのかでいうと、うーん……。志半ばなのかな。解決には至らないけど、解決しようとする姿勢だとか、寄り添う姿勢はオレの中では変わらない。それが周りからすれば、距離間の近さや身近になりすぎているのかもしれない。ある意味では板挟みになる状況を自分がつくっていることも確かだと思う。それがオレのやり方ではあると思う」

 

 この件に関するSNS上でのやりとりに関しても、「自分に至らない点があった」と言いつつも、こう続ける。

 

「姿勢は変わらないし、大事にしていきたい部分。ただ、関わる人も増えてきて一人ひとりに届けなきゃいけない状況になれば、もしかしたらやり方としてはオンラインのほうがいい選択肢になるのかもしれない。そうしたいろんなことを考慮したなかで、そういうやり方になっているけど、自分のなかでのベースにすべきは対話だと思っている。目を見てのコミュニケーションが、人と人とのつながりを生む。コロナ禍となって、そうした変化にも対応しながらやってきたけど、今後はよりリアルな対話や、感情が大事になる。そういった機会をつくっていきたいし、つくりたい。スポーツってそういうものだと思うから」

 

 

 今月6日のツイートを最後に自身のtwitterアカウントは削除した。そうした行動をとったきっかけは一つではなかったという。言葉が一人歩きし、本心とは違った受け取り方をされてしまう。それが本望ではなかったというのだ。

 

「それぞれの思いがあることは分かっている。だけど、自分の見えないところで『きっとこうだろ、ああだろ』って、違うニュアンスで伝わってしまっていた。それが言葉の難しさでもある。オレの中ではSNSを発信するときにいろんな人が見ることや、その後の広がりを理解した上で発信していた。そういうなかで、至らぬ部分が自分にもあったのかもしれない。でも、いろんなものがくっついて勘違いされてしまうのであれば発信は……。一長一短はあるし、そのほかの発信も大切だったんだけど。それよりも勘違いされたり、違うモノの捉え方をされるほうが残念だったから。そこは自分のなかで、直接的な対話を大事にしたいという思いに至った。矛盾するかもしれない。ビジョンや、エンブレムの話はオンラインでやっているってなると思う。そこにはクラブの判断もあったから。でも、あくまでもオレの姿勢はリアルで、対面で話をしていく。それを積み重ねるスタンスは変わらない。そこは、しっかりとクラブにも伝えている」

 

 12日に42歳となった。“40にして惑わず”なんて言うけど、悩みは尽きない。以前ならそんなときは髪をグシャグシャにかき乱しながらも、ボールを蹴っていれば全てが吹き飛んだ。ナオのゴールと、勝利で周りの人を幸せにすることだってできた。

 

「それがフットボールの素晴らしさでもあった。悩んで回り道もする。でも、結局はシンプルなところに行き着くのは知っている。そこが分かっていればいいのかなって。選手時代もあっちこっち巡り巡って、回り道もしまくった。その過程で、いろんなことを感じたり、いろいろ見えることも知っている。でも、悩まないなんて無理だよ、やっぱり悩むよ。結果で恩返しすることも大事だけど、つながりとか、温かさとか、伝えたいことを表現できるのもフットボールだとも思っている。そういったことを大事にしながら、本質を広めていくための手段も大事だし、変化していくことも大事。選手としてはピッチを離れたけど、どんなカタチで今後関わり続けるかは分からない。でも、フットボールの本質をもっともっと追求していく。自分なりのフットボールを追求していって幸せになっていきたいし、オレの周りで手の届く範囲の人たちにも幸せになってほしい。それは変わらず続けていきたい」

 

 42歳の誕生日に、ある覚悟を決めた。今季限りでクラブコミュニケーターとしては終止符を打つ、と。「オレがFC東京に完全移籍をして今年で丸20年になる。引退して今の仕事は、3年から5年で一区切りだとも思っていた」。自分に足りないことを求め、「組織や、マネジメント、リーダーシップだったり、オレに足りないことや、必要なロジカルな面も学んでいきたい。行き着くのは職人かな、その道のプロフェッショナルになりたいんだよね」と、言葉があふれてきた。

 

 なんだか懐かしかった。15,6年前に考えがまとまらずに、腹の底で鬱屈する熱量みたいなものをぶつけられた、あのときのナオのまんまだ。原さんにもよく言われていたな、と。「ナオ、おまえに難しい顔なんて似合わない。笑え、笑ってるときのおまえがいいんだ」って。みんなで笑うために、分かりやすく前に進むための決断だ。

 

 ちょうど日付が変わった直後に携帯の液晶が光った。ナオが生まれる前日に、この世を去ったボブ・マーリーの言葉が送られてきた。

 

Love the life you live,Live the life you love.

 

 平行線をたどる双方が歩み寄る道はないのか。不器用でピースフルな男の願いであり、偽りのない本音でもある。「全てはフットボールで幸せになるために」、だ。

 

 

 

text by Kohei Baba

photo by Masahito Sasaki,Naohiro Ishikawa

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ