【無料掲載】【ノンフィクション】キャリア21年を完遂。無類のサッカー好き、若林学が歩んだ道。~功労者の引退に寄せて
痛烈に突き刺さったプロの言葉
プロの世界は何もかもが違った。自分の未熟さ、下手さ加減を痛感させられるばかりだった。
2005年の夏、J1リーグの大宮アルディージャに合流したとき、チームは残留争いの最中だった。その救世主として若林に白羽の矢が立っていた。だが、チームの練習に参加した初日の、ウォーミングアップがてらに行うボール回しのボールがまったく奪えずに衝撃を受けた。
プロの世界で戦う身体ができていなかった若林は、すぐにフィジカルの強化を求められた。不規則だった食生活も含めて、身体づくりを徹底して始めたのがプロに入ってまず始めたことだった。
「ダイジョブ、ココニマザッテ」
エルシオというフィジカルコーチがニコッと笑い、若林を輪のなかに入れた。若林は、高卒や大卒の選手たちと一緒に筋トレをこなすことになった。
加入した1年目は、天皇杯に出場して1ゴールを挙げたが、リーグ戦はわずか4試合の出場に留まった。立ちはだかるプロの壁。うまい選手たちのなかに埋もれつつあった若林には、この時期、チームの精神的支柱のベテランである藤本主税(現ロアッソ熊本コーチ)から指摘され、いまでも大事にしている言葉がある。何気なく一緒にグラウンドを歩いているときだった。
「毎日、ただ練習をこなして過ごしているだけではプロはダメだよ。一日一日、明確な課題や目標を持って練習に取り組まないと成長はないよ」
ハッとさせられる思いだった。
「当時の僕の様子をみて、(藤本)主税君は気づいていたんだと思うんです。僕自身、プロになったことで満足していた部分が多少あったと思う。それからは、一日一日に課題を持って、それをクリアするためにやっていこう、と強く思えるようになった。それは今、子どもたちに話をするときや指導の現場などで必ず伝えています。あの言葉は僕のなかに一生残っていくと思っています」
それから日々の練習では、自分の強みと課題を明確に意識し、強みを磨くことに重きを置くようになった。すると、自分にはできない課題があまり目立たなくなる感覚が持てた。
「お前の強みは、プルアウェイしてからのヘディングだからな。意識しろよ」
全体練習後に横山雄次コーチ(前栃木SC監督)らが居残り練習に付き合ってくれて、強みを伸ばそうと協力してくれた。若林は少しずつ、プロの環境のなかで自分の強みを負けない武器へと昇華させていった。
加入3年目の2007年、若林はリーグ戦に13試合出場し、リーグ戦初ゴールを含む3ゴールを奪った。その3つのゴールはいずれも劇的なものだった。当時の日本代表の川島永嗣からもゴールを奪った。サンフレッチェ広島と対峙したJ1残留争いの直接対決で決めた劇的弾は、広島のJ2降格を決定付けるものとなり、当時の新聞の一面を鮮やかに飾った。そのゴールは、今も広島のサポーターの苦い記憶として、そして大宮サポーターの歓喜の記憶として深く刻まれている。若林は、大宮にいる3年間でプロとして確かな存在感と爪痕を残した。
翌年、J2の愛媛に移籍した若林は33試合に出場し2ゴールをマーク、続く2009年にはJ2に昇格したばかりの地元の栃木SCに復帰し、38試合に出場したが、この年を最後に若林のプロキャリアは突如、幕を閉じた。
愛する栃木SCから契約満了を言い渡されたとき、若林は大粒の涙を流していた。何より悔しかった。地元栃木のために何かができると信じてプレーしていた。しかし、その思いは無情にも断ち切られた。