「栃木フットボールマガジン」鈴木康浩

【無料掲載】【ノンフィクション】キャリア21年を完遂。無類のサッカー好き、若林学が歩んだ道。~功労者の引退に寄せて

 学生時代から高いレベルでサッカーをする環境とは無縁だった。宇都宮工業高校時代の仲間には県選抜や関東選抜の選手がいたが、若林には一度も声がかかったことがなかった。

 ただ、サッカーに対する気持ちの熱さは誰にも負けない自信はあった。

 サッカーを始めたのは、近所に住む3歳上のいとこの影響だった。幼稚園の頃からいとこの家に頻繁に遊びに行っては、勝手にボールを引っ張りだしてきて、一人で壁にボールを当てて遊んでいるような子どもだった。

 若林の父は大工で、声をかけるのもはばかられる、職人気質の厳格な人だった。父は息子に毎日テレビで巨人戦をみせては、自分が通った野球の道へ進ませたいとの思いを抱いていた。

 小学3年生のときだった。学校の部活動を選択するとき、父は当然のように野球を勧めた。しかし、若林は頑なに首を横に振って抵抗した。どうしてもサッカーをやらせてほしい――。父に泣きつくように懇願し、自分の意志を貫きとおさせてもらった。父の意志に頑なまでに抵抗したのは、人生であとにも先にもこのときだけだ。

 宇都宮工業高校の建築科に進学したのも、大工の父の勧めがあったからだ。若林はサッカーをしっかりと続けることができればそれでよかった。宇都宮工業には県内から上を目指してサッカーに励む仲間が集まる環境があった。

 宇都宮工業を卒業し、日立栃木に入社したのは、建築科で磨いた技能が活かせる現場仕事の求人があったことと、サッカーを続けられる環境があったからだ。

 日立栃木サッカー部の練習は、平日に2回と週末の試合があるだけ。平日の練習は定時退社となる水曜日は10人ほどが集まったが、残業が課せられる金曜日は3人集まれば御の字という状況だった。練習場所のナイター設備は、近所の公園を照らす薄暗い電灯のようなもので、ボールがぶつかれば消えることがしょっちゅうあった。ただ、若林は何も不満を感じていなかった。

「仕事をやりながらサッカーができることに幸せを感じていました。このまま一生ここで働いて、サッカーができなくなったら、サッカーは辞めて現場監督の仕事を続けるんだろうと。満足していたし、一切不満はなかったです」

 好きで始めたサッカー。そのサッカーと寄り添いながら生きていける日々。若林の心は十二分に満たされていた。

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