【無料掲載】【ノンフィクション】キャリア21年を完遂。無類のサッカー好き、若林学が歩んだ道。~功労者の引退に寄せて
突如眼前に姿を現したプロへの扉
しかし、サッカーの神様は若林に転機を与える。
日立栃木サッカー部が、社内の人間だけでなく、一般にも門戸を広げたころから強化が始まり、そして県リーグから関東リーグへ昇格を果たす頃になると、若林は人生で初めて“選抜”という環境に足を踏み入れることになった。
2002年、初めて栃木国体のメンバーとして選出され、そこで当時、JFLに所属していた栃木SCの選手たちと一緒にプレーする機会ができた。若林は今までにない感覚を味わった。
「当時の栃木SCのメンバーには、堀田(利明)さん、只木(章広)さん、種倉(寛)さんら県内トップレベルの選手たちがいて、フォワードの自分には今まで受けたこともないようなパスがバンバン通ってきたんです。こんなパスがくるんだ、という新鮮さがありました」
衝撃だった。若林はそれまで日立栃木以外のサッカーチームを意識したことはなかった。目の前のサッカーを楽しめればそれでいい。心が満たされていた若林に新たな思いが芽生え始めていた。栃木SCの監督である高橋高にはこのとき誘いを受けたが、日立栃木が関東リーグに参入したばかりのタイミングとあって、一度は断りの連絡を入れた。
ただ、どうしてもあの選手たちと一緒にサッカーをしてみたい、という気持ちは収まらなかった。初めて声をかけられてから2年後、再び高橋から話をもらったとき、若林は日立栃木を出る決意をした。このとき若林は会社を辞めて、アルバイトで生計を立てる覚悟があった。だが、「会社は辞めないでいいから、栃木SCで思いっきりチャレンジしてきなよ」、会社が籍を残すように計らってくれた。若林は感謝してもしきれないくらいの気持ちだったが、これで上のカテゴリーでチャレンジする準備は整った。
2004年に加入した栃木SCで待っていたのは猛特訓だった。
若林がフォワードをこなすようになったのは社会人になってからで、ゴール前での動き方の知識など皆無に等しかった。監督の高橋高には毎日のように怒鳴られた。
「若さん、もっとこうしやほうがいいですよ」
Jリーグの水戸ホーリーホックから移籍してきた後輩のフォワードの吉田賢太郎も事あるごとにアドバイスをくれた。若林はそれらがまったく苦ではなかった。もっとうまくなりたい――。その一心でサッカーに向き合い、無我夢中だった。相手が年下だろうと何だろうとすべてのアドバイスに耳を傾けて吸収する腹積もりだった。
栃木SCに加入した1年目はわずか3ゴール。だが、迎えた2年目だった。2005年の前期、若林は2試合連続でハットトリックを達成するなど急激にゴールを積み上げていった。気づけば数字は「14」まで伸びていた。
「みんなが僕がゴールを決めやすいパスを送ってくれたし、チームが一つになっていた。監督、選手、スタッフ、本当に全員の力があったから、ああいう結果も生まれたんだと思っています。感謝しかありません」
無我夢中で走った先に、プロ入りの話はやってきた。信頼するミスター栃木SC、只木章広に相談すると間髪入れずにこう返ってきた。
「プロになれるチャンスなんて誰にも訪れるものじゃないから、絶対にチャレンジしたほうがいい」
若林は悩みに悩んだ。当然、日立栃木の仕事は辞めなければいけないし、覚悟を決める必要があった。当時、付き合って5年近くになり、後に妻となる彼女との将来をしっかりと意識したのもこの頃だった。
父に報告をすると「おめでとう」、その一言だけが返ってきた。父は、幼少期に自分の意志を貫いてサッカーを選択した息子を誰よりも応援してくれた。息子の試合観戦を欠かしたことはなかった。プロ入りの話を伝えたときの父はいつもどおり多くを語らなかったが、若林はその背中に、プロで頑張ってくるね、心のなかで伝えて覚悟を決めた。
26歳のときの決断だった。