【新東京書簡】第四十四信『心の添え木がポッキリと』海江田(18.8.15)
第四十四信 心の添え木がポッキリと
■このうちの一部が青赤に染まっちまう
思わぬ出会いが、その先の人生を決めることがある。
おれがいまこうしてライター業をやっているのは、大学生の頃にマガジンハウスでバイト小僧をしていたのがきっかけだ。元をたどれば、えらく稼ぎのよかった塾講師のバイトを辞め、近所の酒屋で働き、そこで知り合った友人の紹介があってもぐり込めた。ただの本好きという理由で。
つくづく、いいバイトだったと思う。あらゆる雑誌が読み放題だったし、サンプルの書籍やCD(レビュー用の新刊や新譜が毎日山のように届いた)を好きに持ち帰れた。映画を浴びるように観たのもあの頃だ。何せ場所が銀座だからね。仕事が終わり、レイトショーを見て帰った。
マーク・ハーマン監督の『ブラス!』を観た夜の昂りはよく憶えている。時代に取り残されていく炭鉱夫のブラスバンドの話でさ。おとなしく電車に揺られる気分になれず、クライマックスで流れる『ダニーボーイ ロンドンデリーの歌』をハミングしながら歩いて家まで帰った(当時、江戸川区で弟とふたり暮らし)。あと、ドブネズミの恋が世界でいっちばん美しいんだ、とおれの恋愛観を決定づけた1本があるはずなんだけど、どうしても思い出せない。ダメだなあ。年々、記憶の小箱にアクセスしづらくなっていく。
確固たる自分なんてものはまるでなかったから、意図して何かを選び取ってきた自覚はほぼない。むろん、その時々に自分の意思は介在するけど、偶然のめぐり合わせに流されるまま、面白そうな匂いのするほうに足を向けてきた。
要するに、ごくごくフツーの人間はきっかけひとつなんだよ。
巷ではイニエスタ詐欺とも言われた、8月5日のFC東京 vs ヴィッセル神戸。主役の不在にも関わらず、チケット完売につき4万4801人が味の素スタジアムに詰めかけた。予定が狂わなければ、イニエスタのプレーを見て、眼福、眼福と満足して帰っただろう人たちが、せっかく来たのだから元を取ろうとし、何か別のものを見つけて帰ったに違いない。
くそう、と思った。このうちの数十人、ひょっとしたら数百人。たまたまきっかけを得て味スタに足を運んだ一部が青赤に染まっちまうと想像すると、憤まんやるかたなく震えたね。特別なシチュエーションでは、十人並みの器量でもよく見えるに決まっている。そのうち「生涯青赤」とか、聞いてもいねえのにどうでもいいことを言いだしてさ。でもって、数年後には「あの日、僕たちはイニエスタを見にいったのに空ぶって、気づいたらトーキョーにハマっちゃってました。ウフフ」とか男女が見つめ合ったりして。おまえらは黙ってろって、味スタの2階席から逆さ吊りにしてやりたいよ。
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