「(マリノスに)加入して、とても親しみやすいチームだと感じました。スポーツ紙で報道されている内容とは全然違いました」(松原) [松原・山中 両SB対談 2]
【両SBインタビュー対談 第2回】
対象選手:松原健&山中亮輔
実施日:8月31日(木)
インタビュアー:藤井 雅彦
協力:横浜F・マリノス広報室
サッカー選手の選手生命は長くない。それなのに常に競争を強いられ、安泰になることはない厳しい世界だ。だからこそ限られた時間の中で、何を表現するか。時として決断を迫られることもある。
対談第2回のテーマは「F・マリノス加入の経緯と第一印象について」だ。
異なるチームから同じタイミングでトリコロールのユニフォームに着替えた松原健と山中亮輔。外から見ていたチームと、実際に中に入ったチームの印象に違いはあったのだろうか。
――F・マリノスへの移籍を決断した経緯について教えてください。
山中「僕は小学校4年生から柏レイソルの育成組織に所属していました。そのままプロになることができて、居心地が良くて、いるのが当たり前でした。でも去年の5月にけがをしたことも原因で、目標にしていたリオ五輪に出場できず、どこか燻っている自分もいた。だから環境を変えてみたいと思っていて、そのタイミングで最初に声をかけてくれたのがF・マリノスでした。早い段階から熱心に声をかけてくれて、F・マリノスはビッグクラブだったのでとても嬉しかった。たくさん悩みましたけど、あとは自分の感情に素直になって、決断しました」
松原「僕は大分から新潟に移籍して、新潟ではけがで離脱する時期もあってすべてに満足できる時間ではありませんでした。けがの履歴があるにもかかわらずオファーをくれたF・マリノスには本当に感謝していますし、一度しかないサッカー人生の中でより高いレベルのチームでプレーしたかった。恩を返すという意味では新潟でもっと結果を残さなければいけなかったのかもしれないけど、長いとは言えない選手生命の中でチャレンジしたいという思いが勝りました」
――お互い負傷で苦しんだ時期があったのですね。
松原「自分の場合は手術したということもあって完治に時間がかかりました。だから食事やトレーニング方法から意識を変えて、それは今でも常に考えています」
山中「僕は筋肉系の負傷に悩まされてきました。肉離れはいつ起きるか分からないし、今も怖い部分があります。でもメディカルスタッフが熱心に付き合ってくれるし、試合前後もしっかりケアしてくれているので助かっています」
――山中選手が話していたように、リオ五輪に出場できなかったことも共通点です。思い出したくない苦い記憶ですか?
山中「正直、それは大きな出来事だったよね?」
松原「そうだね。ずっと目標にしていた大会だったから…。ヤマの場合は若い頃からずっと年代別代表に入っていたから特にショックが大きかったんじゃない?」
山中「僕はU-15日本代表くらい代表に入っていました。五輪代表は年代別代表の最終ゴールだと思うので、途中までずっと選ばれていたのに最後だけ入っていないというのは…」
松原「それは一番悔しい。僕とヤマはU-18やU-19日本代表の時から一緒にやっていて、五輪の最終予選も一緒に戦えて、本当に楽しかった。予選を勝ち抜くことで団結力が増していることを感じられたし、だからこそ自分も本番の舞台に立ちたかった」
――代表チームでチームメート二人は、F・マリノスに移籍する際に連絡を取り合ったのですか?
山中「僕は健くんがF・マリノスに移籍することを全然知りませんでした(苦笑)」
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