「ザ・ヨコハマ・エクスプレス」藤井雅彦責任編集:ヨコハマ・フットボール・マガジン

青山直晃の2年間-引き留めきれなかった完全移籍 (藤井雅彦) 

 


それは当然の決断だったのかもしれない。決して長いとは言えないサッカー人生の中で、能力のある選手が力を発揮しきれない環境にいるのが正しい選択とは思えない。いくら高い給料をもらっていたとしても、だ。だから青山直晃はマリノスを最終目的地ではなく、経由地点にする道を選んだ。迎える新シーズン、青山はヴァンフォーレ甲府の一員としてJ1の舞台で戦うことが決まった。形式は期限付き移籍ではなく、完全移籍である。

青山が横浜の地を訪れたのは2011シーズンだった。つまり2010シーズンのオフに獲得した選手になるわけだが、その時期はマリノスにとって“大激震”が走ったオフである。松田直樹(故)や河合竜二(現・コンサドーレ札幌)、山瀬功治(現・京都サンガ)、坂田大輔(現・アビスパ福岡)といった長年チームを支えた主力を大量放出した。そんな著名選手と入れ替わるように、清水エスパルスで出番を失っていた青山は契約満了と同時にマリノスを新天地に選んだ。

獲得の経緯についてクラブ関係者は「中澤佑二の後釜としては最高の選手」という評価を与えていた。空中戦の強さはリーグ屈指で、そう遠くない未来に最終ライン中央を任せられる人材を探していたチームにはうってつけの存在であった。中澤の年齢を考えて後釜を探すのは当然のことであり、青山サイドにしてみれば、すぐに出番を得られなくてもチャンスはあると考えるのも不思議ではない。そのことは青山自身もしっかりと認識しており、移籍加入直後から「すぐに出られるとは思っていません。このチームには中澤さんと栗原(勇蔵)さんがいますから。二人ともすごい選手ですよ」と遠慮がちに話していた。

予想どおりといっては失礼かもしれないが、加入1年目の2011シーズンはリーグ戦10試合、スタメンは7試合の出場にとどまった。その7試合にしても実に6試合は中澤か栗原が負傷や出場停止で不在だったためで、どちらかと共存しながら、なおかつCBのポジションでプレーしたのは1試合のみ。残念ながら新旧日本代表CBの牙城を崩すに入らなかった。しかし、出場した際には彼らと遜色ないパフォーマンスを見せていたことも事実で、この3番手CBの存在はチームにとっては心強かった。

心境に変化が表れ始めたのは加入2年目の2012シーズンに入ってからだろう。新シーズンを迎え、指揮官が樋口靖洋監督に交代してもCBは固定されたまま。中澤のパフォーマンスは年齢とともに下降するどころか、むしろ円熟味を増した。栗原も日本代表と二足の草鞋を履きながらも不要な負傷が減り、安定したプレーを見せる。青山の出番といえば、相変わらず両CBのどちらかが欠けた場合のみ。代表帰りでコンディションの悪い栗原がベンチに座ってのスタメンこそあったが、ポジションを奪ったとは言い難い。リーグ戦での先発はわずか4試合と、気がつけば1年目よりも減っていた。

そこで芽生えてきた感情がある。転機となったのは、前述した4試合のスタメンのうちの1試合、第26節・鹿島アントラーズ戦だ。その試合、マリノスは中澤と栗原の二枚看板を揃って故障で欠き、最終ライン中央は青山と富澤清太郎がコンビを組んだ。すると彼らは持ち味を存分に発揮して勝利に貢献。連敗を『3』で止めるとともに、能力の高さを周囲に知らしめた。

結果的に次の試合では再び二枚看板がスタメンに復帰するのだが、鹿島戦でのパフォーマンスで青山は清水時代の終盤から失いかけていた自信を取り戻した。「とりあえずホッとしました。最低限のプレーはできたし、とにかく勝ててよかった」と優しい言葉で振り返るあたりが実に彼らしい。言葉とは裏腹に、ピッチでは勇猛果敢に戦い、高い集中力を発揮していた。まだまだJ1の一線級でプレーできることを自身のプレーで証明し、それを自分自身で再確認するきっかけとなったのだ。

すると時期的にもシーズン終了後の身の振り方が脳裏をよぎる。清水から2年契約で加入した青山は他クラブが移籍がに乗り出した際に違約金がかからない。ハードルは決して高くなく、手を挙げるクラブがあれば青山は前向きに検討する構えを示していた。

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