「栃木フットボールマガジン」鈴木康浩

【OB探訪】中美慶哉インタビュー 前編「最後に、練習試合でしたけど栃木SCのユニフォームも着られたので、それで気持ちのけじめはついたんです」【インタビュー】(22.10.28)

▼中美慶哉との再会

マジか――衝撃だった。

今年1月、栃木SCのトップチームの練習を取材しているときだった。

その中に、あの中美慶哉がいるのだ。

2022年1月、始動したばかりの時崎栃木のなかに、中美がいる。不思議な気分だった。

全体練習が終わり、ピッチサイドから眺めているとクールダウン中の中美がこちらに気づき、軽く頭を下げてくれた。そのときはお互いにタイミングが合わずに話はできなかったが、どこかで連絡しようと思いながら時間が過ぎていった。

それから1カ月が経ったとき、中美は現役引退をリリースした。

マジか――二度目のびっくりである。

すぐに連絡を取ろうかと思ったが、逡巡した。引退後の“次”が落ち着いてからの方がいい――。

 

半年ほど時間が経過した今年9月だった。34節群馬戦の試合前にメディア入口から入ろうとしたとき、男性の背中が見えた。

振り返ったのは、中美だった。

あ――。

お互いに声を出していた。ラジオ解説でグリスタに来たのだという。僕らはやあやあと再会を喜び、その場でインタビューを約束した。

 

9月17日。場所は、あのときのロングインタビューと同じ某所のスタバ、同じテラス席だ。

2016年1月3日、僕はサガン鳥栖への移籍がリリースされた直後の中美に連絡を取り、約2時間、その言葉に耳を傾けた。栃木SCは前年、あえなくJ3降格が決まっていた。

一方で、自身はサッカー人生で初めてJ1に挑戦することに。その複雑な心境に耳を傾けた。

中美にロングインタビューをするのはあのとき以来、6年ぶりである。再び、僕は中美の言葉にじっくりと耳を傾けた。

 

【6年前のロングインタビュー】中美慶哉インタビューvol.1 ~決意~「栃木SCがJ1へ行けるくらいの可能性を残してから外に出たかった」

 

場所は6年前と同じスタバのテラス席。同じ角度。でも引退した今は現役当時とは目つきが柔らかくなった。

【OB探訪】中美慶哉インタビュー 後編「トチエスのためにできることに携わりたい。僕はここが地元だし、トチエスのアカデミーのプロ第一期生だし、何かできたら」

 

今年の1月、栃木SCの練習に参加している光景を見たときは驚いた――。

そう伝えると、中美は自身が引退を決める間際の心境から話を始めた。

2020年に松本山雅を契約満了になったときに感じたのは、コロナの影響もあって30歳を過ぎた選手たちの契約が厳しくなっていたことです。僕自身、山雅で試合には出ていたけれど結果を出せなかった。そこから自分が再びステップアップする姿も見えなくなっていました。JFLの岡﨑からオファーが来たときは正直、ずっと迷っていて。自分はこれまでサッカーだけをやってきて、でもサッカー以外のこともやりたい、もっと知りたいという欲もずいぶんと出てきていたんです。周りは『もう1年できるよ』と言ってくれたのですが、実際には岡﨑に行ってプレーをしていても、これが最後になると思っていたし、サッカーを辞めるならば、最後はトチエスにチャンスをもらえたら嬉しいという気持ちでいました。

それで12月には宇都宮の実家に戻ってきて、『自分はずっと宇都宮にいるので最後にチャンスを下さい』とチームに伝えたんです。でも、僕が所属していたときのチームとはもうスタッフはまるで変わっているし、自分は結果を出せていないこともあり、難しいこともわかっていました。でも、練習参加だけならばいける、という話をもらったんです」

――それは?

「ヒデさん(赤井秀行)に僕の気持ちを伝えて、それをそのまま橋本社長に伝えてくれたんです。『現場が獲るかどうかわからないけれど』という前提でしたが、それで一週間だけ練習参加をさせてもらったんです」

――それが今年のキャンプ前。

「はい。もし、僕のプレーがよければキャンプに連れて行くという話でした。でも、わかっていました。自分のけじめ、気持ちも問題だったので、最後にグリスタでプレーできたらいいなと思いつつも、気持ち的な部分でけじめをつけたかったんだなと。最後に、練習試合でしたけど栃木SCのユニフォームも着られたので、それで気持ちのけじめはついたんです」

――練習試合。

30分×3本の最後の1本だけ、しかもボランチだったので、そこまで自分の良さは出せなかったですけど、贅沢を言える立場ではないし、そこでけじめはついたから。そこから他を探すとか、練習場所を探すとか、色々と転々としながらサッカーの選手として現役を続ける気持ちはもうなくて。家族にも『30で引退するよ』と伝えていました」

――全然可能性はないと。

「いや、一緒に練習していてもできるし、実力でまだまだやれる自信はありましたよ。その2年前にはJ1でやっていたし」

――20年に栃木と山雅が対戦したときも中盤で時間を作るなど違いを見せつけていたと思います。

「練習参加したときは必死にアピールしたし、チャンスが欲しいと思っていたし、やれる自信はありました」

――30歳で引退かと。まだ早いと思いました。

35歳くらいまで生活できるくらいの稼ぎは作れたと思いますが、それが面白いとは感じなかった。地域を転々としながらプレーする熱量が自分にはなかったし、もう一方で、35歳までサッカー以外に何もやっていないのはまずいという感覚もありました。二十代の前半から社会人をやっている人たちとは雲泥の差がついている。でも30歳ならばまだ何とかなる、という気持ちがありました。サッカー以外の違う世界を見たいと思っていたんです」

――それは現役時代から思っていたこと?

「もちろん、金沢のときは個人の結果も付いてきたし、山雅のときもJ1に昇格してJ1でプレーできたし、上を目指す気持ちはあったんです。256歳のときは結果を出せば日本代表への道もある、と自分のなかの物差しで測っていて、山雅でうまくいって優勝してJ1で活躍したら日本代表だとかステップアップは考えていたけれど、コロナもあり、このタイミングだなと」

――地元が好きだった。

「はい。宇都宮に戻って来ることは最初から決めていました」

 

▼トチエスとの入れ替え戦の気持ち

――6年前に遡って話を聞きたいのですが、15年末にサガン鳥栖からオファーがあり、加入のリリースは1230日のことでした。年明け早々にここで話を聞かせてもらい、その後鳥栖に行くという流れでした。初めてのJ1を戦うことになるわけですが、鳥栖では最初ケガで出遅れてしまったんですよね。

「最初はケガでした。キャンプの前からケガをしてしまい、ほぼキャンプもできず、開幕してから復帰したのですが、またケガをしてしまって」

――最初は肉離れ?

「アキレス腱炎です。初めてのケガでした。それを23カ月引っ張ってしまって」

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