「栃木フットボールマガジン」鈴木康浩

人口1万人未満の小さな町の愛媛王者で揉まれたジュニア時代。菅和範は小学生のときから”闘将”だった!?【Jリーガーの履歴書 Vol.5 菅和範編(前編)】(20.5.15)

新連載、Jリーガーの履歴書。プロになった選手たちのプロ入りまでの歩みを振り返ります。Vol.5は菅和範選手をピックアップ。

 

▼小学生のときから意識させられた”球際”

 

――これまであまり聞いていなかった小中高校生の頃の話を改めて聞かせてください。菅選手は愛媛県今治市出身のイメージが強いですけど、生まれは広島県なんですよね?

 

「そうですね、広島にいたのは、すごく小さい頃なんです。母親の生まれも広島ですし、父親が転勤で広島の造船のところに行っていて、そこで僕が生まれました。広島出身です、と言うと広島の人ともつながれるし、ルーツを出した方がいろんな人とつながりやすいなと。だから『生まれは広島で、育ちは愛媛です』という方が自分の中でしっくりくるのでそうしているんです」

 

――生まれて、すぐに今治に行ったんですね。

 

「だと思います。写真を見ても、本当に小さい頃にしか広島にはいなかったみたいです」

 

――小学生のときは今治の大西キッカーズに入っています。

 

「そうです。大西キッカーズは越智郡大西地区という場所で、造船と島とかの町です。僕が中学生の頃までは、そこの郡大会がそのまま県大会につながっていたんです。市になったのは僕が大学に行ってからかな? かなり最近ですが、今治市に入ったので、僕の中では大西町という今治ではないところなんですね。越智郡だから、僕は郡育ちです。今は今治市に合併されています」

 

――大西キッカーズは少年団ですか?

 

「同級生のお父さんがつくってくれた少年団です。監督もすごくサッカーを熱心にやってくれました。壬生川工業という“にゅうこう”と呼んでいたのですが、高校サッカー選手権で全国2位になるくらいの強豪校でサッカーをされていた、そういう監督でした」

 

――たまたまそれだけの実績のある方が指導するチームだったんですね。

 

「1971年に全国高校サッカー選手権で準優勝しているんです。そのときのメンバーが僕の当時の監督です。大西キッカーズを創設した監督で、怖かったですけれど、すごくサッカーに対して熱い素晴らしい監督でした」

 

――どういう練習をやっていたんですか?

 

「今の大西キッカーズにはそういう考えはないと思いますが、当時は『勝つサッカー』を目指していました。それと”日常五心“という教えがありました。ありがとうという感謝の心、お陰様という謙虚な心、”はい“という素直な心、その他は調べてもらえば出てくると思います(その他、すみませんという反省の心、わたしがしますという奉仕の心、がある)。それと”一人はみんなのために、みんなは一人のために“という、おそらくスクールウォーズ世代なのかな(笑)。”One for All, All for one”、この二つを柱にした人間教育と、”勝つサッカー“ですね。やっぱり『勝たなきゃいけない』ということをすごく言っていた監督でした。技術どうこうよりも、勝てるようにミニゲームをしました。小学生の頃で記憶に残っているのは『球際』みたいなことですね」

 

――おお、小学生の頃から“球際”を意識。

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