【無料記事】【インタビュー】【東京ダービー特別企画】『東京ダービーはエモーショナルであれ!』城福浩監督 前編(24.8.14)
『東京ダービーはエモーショナルであれ!』城福浩監督(前編)
8月17日のJ1第27節、東京ダービーが味の素スタジアムで行われる。前回、第8節の対戦は2‐2のドロー。次こそ勝利をつかむべく、それぞれ週末に向けて準備を進めている。
なぜ、東京ヴェルディとFC東京の対決はこれほど熱く燃えるのか――。特に東京Vは昨年から今年にかけてファン、サポーターが急増し、新しい人を多く迎え入れている。そのためJリーグで唯一、ふたつのクラブが共用する味の素スタジアムをはじめ、さまざまな過去の経緯について知らない人が増えてきた。
城福浩監督はFC東京の立ち上げから当事者として立ち会い、両クラブで指揮を執った、世界でただひとりの監督だ。双方のサポーターが受け入れられる説明が可能な、唯一無二の人物と言っても過言ではない。過ぎ去った出来事を整理したうえ、これから東京ダービーが新しい歴史を重ね、Jリーグのキラーコンテンツとなっていくための一助としたい。
■僕は何でも屋として呼ばれたんです
――はじめに城福監督とFC東京の関わりについて聞かせてください。1998年3月末に富士通を退社されて、FC東京の設立準備組織に加わります。
「浜松町の東京ガス本社、資料フロアの片隅にある一室からスタートしましたね。いわゆるテレビドラマで見るような閑職をイメージさせる部屋で、本当にここで毎日仕事をするの? と思ったほどでした」
――スタッフの数は?
「最初は5人ぐらいだったかな」
――任せられた仕事は?
「まずは4種(ジュニア年代)を回ること。この先、アカデミーの組織を立ち上げるにあたり、長年、東京で活動してきたジュニアやジュニアユースのチームの指導者に話を通しておく必要があったんです。相手からすると商売敵の出現みたいなもので、最初は敵意しかなかったですね。サッカースクールで幼稚園や小学生と一緒にボールを蹴り、その頃はまさか自分がこんなことをするとはと思いましたが、これはのちに貴重な経験として役立ちました。普及のコーチングスタッフを知ることができ、同じ東京でも住んでいる土地ごとに親と子どもの性質に大きな違いがあること、親を見ながら教えなければいけないんだなと。あとはポスティングの仕事もありました。地域を一軒ずつ回り、ひたすらポストにチラシを入れる。大きなマンションがあって、ここは入れがいがあるぞと思っていたら管理人が出てきて、慌てて逃げ出したこともありましたね。危なかったなあと(笑)」
――インフラの会社だけあって、やることが凡事徹底のどぶ板営業。
「どぶ板が基本なんです。JFLの試合で、アウェーゲームの応援バスの添乗員をしたこともありました。Jリーグを目指し、自分たちの手で東京に新しいクラブをつくるんだ、チームを後押しするんだと集まった人間ばかりですから、血気盛んなんですよ。『試合ではあまり相手のことを非難しないように気をつけましょう』と僕が言ったら、『うるせえんだよ』『きれいごと言ってんじゃねえよ』とやり返される始末で」
――光景が目に浮かぶようです。
「要するに僕は、何でも屋として呼ばれたんです。富士通で社業専念時代を経て業務命令でサッカー部に戻った当時、中国人の沈(祥福)さんが監督で、コーチである自分がマネージャーやリクルーティング、アメフト部とのグラウンド調整など雑多な仕事をこなしていたので、クラブの立ち上げにうってつけと見られたのでしょう。指導者として必要とされたわけではありませんでした。FC東京に入る際は、ひとつだけ条件を付けています。S級ライセンスの受講を許可してほしいと。サッカーをきちんと勉強するならこれが最後のチャンスだと考えていたんです」
――S級ライセンスの取得後、FC東京で育成普及部長を務めつつ、日本サッカー協会に出向。産声を上げたばかりのナショナルトレセンの関東の責任者に就きます。
「東北の鈴木淳、北信越の反町康治、東海の内山篤、関西の小倉勉、中国の高橋真一郎、九州の小林伸二。彼らとともに選手の育成に関して議論を交わし、トレセンや各年代の代表活動に携われたのは非常に大きな学びになりましたね」