「スタンド・バイ・グリーン」海江田哲朗

【フットボール・ブレス・ユー】第60回 1998年からのエール(22.8.19)

第60回 1998年からのエール

あの人はどうしているかな。元気にしているといいのだけど。夜になるとたまに、懐かしい顔がふと頭に浮かんでは消える。コロナの時代、人と会う機会がめっきり減り、その頻度は増した気がする。

久しぶりに話したい気持ちはあっても、僕の場合、実際に連絡するハードルを越えるには何らかの口実が欲しい。

城福浩監督が東京ヴェルディにやってきて1ヵ月半が過ぎた頃だった。僕はある人に連絡をしてみようと思い立つ。かつて、川崎フロンターレのゼネラルマネージャーを務めた福家三男さんだ。2001シーズンから10年間チームの強化に携わり、のちに黄金期を迎える川崎の礎を築いたひとりである。クラブの顧問を務めたのちに退職し、「孫の面倒を見るのが忙しくてさ」と笑いながらサッカー界から去った。

僕にとっては、クラブの在り方や強化の仕事の何たるかを教えてもらった恩人である。仕事上、好き嫌いで対象を分けることはできないが、人物そのものに魅力があって心を惹かれた。シンプルにこの人の言葉は信用できると思った。

城福監督への興味が高まるにつれ、周辺取材の必要が出てくる。その人を知るには、本人の言葉よりも、鏡となる他者に残した印象の断片を集めたほうがより本質に迫れるという見方を僕はしている。ふたりの富士通サッカー部時代にはきっと接点があるはずだ。

体調を崩されていなければよいがという心配は、杞憂に終わる。3コールもしないうちに、「はい、もしもし」と独特のしゃがれ声が聞こえた。ほっとした。つくづく昭和のサッカーマンは丈夫にできている。挨拶もそこそこに今回の用向きを伝えた。

「あの子はですね。徳島の城北高、サッカー界では名もなき県立高校から出てきたんですよ」

還暦を過ぎたベテラン指揮官をつかまえて「あの子」とは妙な具合だが、福家さんの脳裏には血気盛んだった城福青年の姿が焼きついているのだろう。

「私が富士通の監督をしていたときに早稲田から獲った選手です。代表で一緒だった監督の宮本征勝さん(エイトマンの愛称で親しまれた元日本代表MF。鹿島アントラーズ初代監督。2002年5月7日逝去)が『中盤でプレーし、ゲームメイクだけで満足する選手が多いなか、あいつだけは前に出て点を取りにいこうとする。どうだ、面白いだろ?』と言っていてね。当時は前、中、後ろで分業の時代ですから、その手の選手は珍しかった」

そうだったのか。接点の有無どころの話ではなかった。思い立つがまま電話をしてしまい、下調べが不足していた。

以下、J論プレミアムの城福監督インタビュー『猛暑も吹き飛ぶ情熱。城福浩、熱血指揮官の源流と血圧を問う』をご一読いただけるとより味わいが増すことうけあいだ。そちらでは富士通時代につながりのあった松田岳夫監督(WEリーグ1部・マイナビ仙台レディース)にヒントを頂戴している。

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