デイリーホーリーホック

「水戸のレジェンド達が大集結。リレートークで30年の歩みを振り返る『MITO HOLLYHOCK 30th ANNIVERSARY EVENT』」【HHレポート】※無料記事

【写真 米村優子】

今年でクラブ創設30周年を迎える水戸ホーリーホック。歴代のレジェンド達がリレートークでこれまでの歩みを振り返る記念イベント「MITO HOLLYHOCK 30th ANNIVERSARY EVENT」が7月23日、水戸市泉町の水戸市民会館ユードムホールで開催され、約400人のファンサポーター、パートナー企業関係者が来場しました。

【写真 米村優子】

まず、30年の軌跡を一気に辿るオープニングVTRが流れると、待望のイベントがスタート。
過去3度も水戸に在籍し、プロ引退後は初代CRCを経て、水戸ユースを指揮する冨田大介監督、2012年から10年間在籍し、二代目CRCやトップチーム指導者を兼任する細川淳矢コーチ、2004年からスタジアムDJを担う寺田忍さん、同年から水戸の取材を続けるデイリーホーリーホックのメインライター佐藤拓也の4人が司会進行を務める中、「30周年リレートーク」が幕を開けました。

【写真 米村優子】

第1部「1994ー2004 全てはここから始まった」

第一部は、クラブ創立から前田秀樹監督の就任2年目まで振り返る「1994-2004 全てはここから始まった」。
2003年~2004年所属していた樹森大介トップチームコーチ、1998年~2003年まで所属し、現在は下部組織のヘッドオブコーチングである鳥羽俊正さん、2000年~2003年まで所属していたジュニアユースコーチの北川佳男さんの3人がゲストとして登壇し、黎明期のクラブについて語りました。

【写真 米村優子】

JFL時代を知る鳥羽さんは、「選手の出入りが激しく、経営困難でチーム存続のための署名活動もしていました。Jリーグに上がれなければ、チームがなくなるとも当時の社長から言われました。昇格条件はクリアできましたが、Jリーグに承認されるかどうかの電話を選手みんな事務所で待っていました」とJ参入時の裏話を語ります。
ちなみに、クラブのJ初得点を決めたのは鳥羽さん。
2000年の第2節の大分戦、マッチアップした片野坂知宏さん(現大分トリニータ監督)がオーバーラップした隙に裏を取り、少々アウトにかけてGK前川和也さん(元日本代表)から得点を奪ったのが初ゴールとなったそうです。

【写真 米村優子】

北川コーチは、毎日車で一時間近くかけて転々とする練習場まで移動し、着替えは車内、シャワーは水道、土のグラウンドという当時の過酷な環境を紹介。
当時は元ブラジル代表のFWジョン・パウロ選手が在籍しており、「東海村の練習場で12分間走を一緒に走る貴重な体験をしました」と感慨深そうに語ります。

【写真 米村優子】

そして話題は、J参入後の初代監督で、歴代唯一の外国人監督であるバビチ・ブランコ監督に関してのエピソードへ。
カレカさん(元ブラジル代表、元柏レイソル)を通じて水戸に招聘されたという説が有力ですが、未だ謎多き監督について、「よくやらされた練習はフルコートでの2対2。走ることをすごく求められました。選手の実績は関係なく、鳴り物入りで入ってきた新卒の選手も同等に扱い、調子の良い選手を起用していました」と鳥羽さん。
当時、大卒ルーキーだった冨田監督は、通訳が監督の言葉を「窮鼠猫を噛む」と意訳した際、全員意味が分からずポカンとしていたという逸話を披露し、観客から笑いがこぼれました。

【写真 米村優子】

樹森コーチは、前田秀樹監督が就任して一年目に加入。
「開幕から5-4-1のフォーメーションで、前線もひたすら守備をやらされ、相手を引き込んで、カウンターで出ていく役目をしていました」と2003年を振り返ります。
その年は、DFながら二桁得点をマークした元日本代表の田中マルクス闘莉王さんが在籍していた年。
水戸のみならず、日本サッカー史に名を刻むレジェンドは破天荒なエピソードが多く、「試合3時間前にカレーを食べていたら『そんなの食べたら吐くぞ』と言われたのに、本人は練習15分前に中華丼を食べていた」(冨田監督)、「PKを獲得したのは自分だったのに、いつも蹴らせてもらえなかった」(樹森コーチ)など次々と明かされる一方で、「公式戦の緊張で下痢になる共通点があった。試合直前はいつも一緒に下痢止めと胃薬を飲んでいた」(樹森コーチ)という人間味のあふれる話も。
闘莉王さんの水戸時代の名言「代えて!あのFW!」が北川さんを指しているという噂が20年以上経った今でも流布されていますが、本人曰く「真相は未だ闇の中」とのことでした。

【写真 米村優子】

第2部「2005ー2010 水戸スタイル模索」

次は、2008年~2009年の2年間で31得点を獲得したストライカーで、現在は立正大学サッカー部のコーチを務める荒田智之さん、2009年から2014年に所属していた島田祐輝ジュニア監督を迎えて、「2005-2010 水戸スタイル模索」のお題へ。
この時代の前半を支えた指揮官は前田秀樹監督で、2点ビハインドの状況でもチームを前に出さず、相手監督が記者会見で憤怒していた程、「水戸ナチオ」と呼ばれる超守備的戦術を徹底し、現在も脈々と受け継がれる粘り強い守備の源流を築き上げました。
その水戸ナチオが奏功したのが、2007年5月3日、国立競技場にて5-1でラモス瑠偉監督率いる東京ヴェルディ1969に快勝した伝説的なゲームです。
その試合後、「前田監督が記者会見場にスキップしながら現れた」と当時の様子を佐藤が明かすと、会場は笑いに包まれました。

【写真 米村優子】

2008年、木山隆之監督(現ファジアーノ岡山監督)の就任後、チームは水戸ナチオから攻撃サッカーへの転換期を迎えます。
その時代を象徴する選手の一人だった荒田さんは、「一年目は菊岡(拓朗)や村松潤君などからパスが出て来て、二年目は高崎(寛之)の周りを動いていたらこぼれ球で点が取れていたかなと思います」と振り返ります。
印象に残っている試合は、2008年のアウェイ仙台戦。
2-2で迎えたアディショナルタイムで決勝ゴールを決め、過去未勝利だった仙台に初勝利したゲームを挙げ、「最後、一発を狙っていました。相手のミス絡みだったのですが、いいゴールでした」と回顧すると、ゴール裏で観ていたという寺田さんは「ゴールが決まった瞬間から大号泣。試合が終わるまでずーーーっと涙が止まらなかったです。あんなの初めて」と熱を込めて語ります。

【写真 米村優子】

当時、ポゼッションサッカーが主流という風潮があった中で、「ポゼッションは死語」という言葉を用いて、ひたむきに勝利を徹底追求した木山監督。
荒田さんは「前に前にというサッカーは、練習から口酸っぱく言われました。勝つこと、ボールを取るため、前に前にと言われたのは今でも覚えています」、島田監督は「僕自身、あまり後ろを向かないプレースタイルだったので、自分の良さを出せば認めてくれる監督でした」と語ります。
そんな攻撃的なサッカーは功を奏し、2008年は荒田さんを含む3人がハットトリックを達成。年間得点数は70点を記録し、21勝20敗10分の勝ち点73で、18チーム中8位。クラブ史上初の勝ち越ししたシーズンとなりました。

【写真 米村優子】

推しメン総選挙レジェンド結果発表

今年で10回目の開催となったシーズン序盤の投票イベント「推しメン総選挙」。
アニバーサリーイヤーの今年は、過去水戸に所属した推しレジェンド選手を選ぶ「推しメン総選挙レジェンド」も同時開催され、2000票を越える投票がありました。
果たしてどの選手が名を連ねるのか。満を持して、上位11人が発表となりました。
11位・伊藤涼太郎選手、10位・デルリス選手、9位・小川航基選手、8位・三島康平選手、7位・塩谷司選手、6位・吉原宏太さん、5位・船谷圭祐さん、4位・前田大然選手、3位・鈴木隆行さん、2位・細川淳矢コーチ、そして栄えある1位は、もちろんこの選手。
現役レジェンドの本間幸司選手が投票数トップを獲得しました。

【写真 米村優子】

第3部「2011ー2018 震災を経て、この街のために」

「育成の水戸」の代名詞となった前田選手が水戸時代を語るインタビュー動画が流れた後、三島選手(関東2部リーグCOEDO KAWAGOE F.C所属)、サッカースクールコーチの船谷さん、指導者や解説者など多方面で活躍中の鈴木さん、本間選手、2011年から2013年に所属していた飯田優二ジュニアユース監督を迎えて、トークイベント第三部「2011-2018 震災を経て、この街のために」が行われました。

この時代を語る上で決して外せないのが、2011年3月11日の東日本大震災。
ちょうど練習中だったチームは、水戸市河和田町のツインフィールドで震災を経験しました。
本間選手は「大きな揺れがあって『大変だ』と動揺していたのですが、当時は闘将・柱谷哲二監督の時代。とんでもない余震が続いていましたが、試合の前日で『Jリーグはやるかもしれない』と練習をやっていましたね。でも、さすがにクラブの人達が練習を中止して、その後、最初に控室から逃げたのは柱谷さんでした(笑)。切り替え早い(笑)」と当日の様子を語ります。

【写真 米村優子】

日立市出身で元日本代表の鈴木さんは、震災を機に、故郷の茨城にある水戸ホーリーホックへ加入した一人。
当時は全国ニュースとして大々的に取り上げられましたが、実は複雑な心境で加入していた裏話が語られました。
同年は現役を引退し、アメリカのクラブでコーチに就任予定だった鈴木さんは、家族の都合で震災直前に帰国しており、未曾有の災害を経験。再渡米の気力が失われ、何もできない自分自身にショックを受けていたと言います。
そんな最中、水戸の経営悪化し、存続の危機に陥っているニュースを知り、「鹿島(アントラーズ)は大きいクラブだから大丈夫だけれども、水戸が潰れそうならば何か手伝えるんじゃないかっていう簡単な気持ちでした。すぐに柱谷監督に連絡したら、『選手としてやってくれ』とオファーを受けましたが、『半年も動いてないし、とてもじゃないけれど、選手はできない』と断ったら、『駄目だったら、駄目でいいから、とりあえずやってみなさい』と言われたのです」と加入の経緯を語ります。
「被災したチーム、水戸市、茨城県に貢献したい気持ちで始めましたが、結局、一番自分が応援されて、サッカー選手を4年も続けさせてもらえました。何かしたかったのに、皆さんから色々と力を貰えて、感謝の気持ちで常にプレーしていました」と振り返ります。

【写真 米村優子】

鈴木さんは思い出に残るゲームは?と聞かれた際、水戸初出場で初ゴールを決めた2011年の愛媛FC戦をいつも挙げるそうですが、実はもっと思い出深い試合が…。
「2013年のホーム山形戦でゴールを決めた後にペットボトルか何かを蹴って、相手選手に当たりそうになり、退場させられたこと」と明かすと、「覚えています!前半に橋本晃司選手が退場し、1点リードされていました。あの時の隆行さんのゴールはすごかった」と寺田さんがコメントし、その試合に出場していた細川コーチは「前半3分ぐらいで橋本晃司が退場になり、それでもみんなで頑張ろう!って一丸となった。ハーフタイムに隆さんが『絶対勝てるから行くぞ!』と鼓舞して、点を決めてくれて、退場しやがった!9人ですよ!9人!本間幸司、バチ切れでしたよ!」と当時の裏話を語ると、会場は大爆笑。
その他にも、「『前半』を『午前中』と言い間違えていた」(冨田監督)、「水戸を辞める時、お小遣い一万円をくれた」(飯田監督)など、鈴木さんにまつわる逸話が次々と披露される度に会場が沸き上がりました。

【写真 米村優子】

鈴木さんは諸事情でイベントを惜しまれつつ途中退場すると、その直後、小学生時代から一学年上の鈴木さんを知っていたという同郷の本間選手は、「隆さんと一緒のチームでずっとやりたいと思っていたけれど、ずっと対戦相手ばかりだった。震災後に同じチームになれて夢のようでした」と打ち明けると、「隆さんが帰る前に言った方が良かったんじゃないですか?」と細川コーチが突っ込みを入れると、舞台袖から鈴木さんが再登場。
「幸司は日立中が知ってるような悪ガキでしたが、そんなやつが二十何年もサッカー選手を続けてるってすごくないですか?応援してあげて下さい!」と観客に後輩の後押しを呼びかけました。

【写真 米村優子】

この時期のハイライトは2015年の残留争い。
リーグ終盤まで降格の危機に瀕していた中、ホーム最終戦の終了間際、三島選手の劇的ゴールによって勝利をもぎ取り、残留を決定しました。
クールな性格で知られる三島選手は、「ゴールを取ってサポーターのところに駆けていったのは、これが最初で最後」と話すと、「絶対そんなことないでしょ!」と四方八方から突っ込みを浴びながら、「残留争いの辛い年だったので、喜びが爆発した瞬間でした」と感慨深そうに語ります。
「こうやって点を取ったところが一番フォーカスされますが、僕がアシストしたんです」と船谷さんが添えると、称賛の拍手が鳴り響きます。
当時のキャプテンを担っていた船谷さんも「辛いシーズン」と振り返りましたが、同学年の岩尾憲選手、馬場賢治選手、田中雄大選手と一緒にチームをまとめ上げ、「周りが助けてくれた部分が大きかったです」と懐かしそうに語ります。

【写真 米村優子】

思い出のゲームについての話題となり、島田監督は2012年のアウェイ湘南戦を挙げ、「当時は一度も湘南に負けていなくて、残り少ない時間で自分の得点で勝利できました。絶対に同じシュートは出来ないのですが、あの時は大分冷静にシュートを打てましたね」と語ると、「アウェイ東京V戦とか、練習でも打ったことない、とんでもないシュートを決めていたよね」と本間選手が関心するシーンも。
飯田監督は自身が出場したホームの鳥取戦や「震災の時のゲームは感慨深く、サッカーをやっている意義を感じた試合でした」と思い返していました。
同じ左利きで靴のサイズが小さめな船谷さんの真似をしようと、小さなスパイクを履いたところ、すぐ故障してしまったという話を披露すると、それに触発された細川コーチが「圭祐のシュートを喉で受けて、カラオケで高い声が出せなくなった」と主張して観客の笑いを誘いました。
三島選手の忘れられない試合は、シーズン途中で松本山雅に移籍する直前のホーム町田戦と移籍直後の水戸戦。
「こんなすごい感情でやった試合はないです。町田戦はウォーミングアップでサポーターの皆さんの横断幕や応援歌を歌ってくれた時点で泣いていて、終わった後も泣きながら挨拶をし、一番複雑で思い出深いシーンでした。それで移籍してホーム一発目が水戸戦で、こんな気まずい試合はなかったです。感情が難しい試合でした」
空中戦勝率リーグ1位を誇っていた三島選手について、本間選手は「隆さんとの2トップが多く、ロングボールがめちゃ楽だった。あれは水戸の歴代1位だね」と絶賛。
細川コーチも、「毎日競り合えるので、いい練習相手だった」と当時を振り返っていました。

【写真 米村優子】

第4部「2019ー2024 未来に立ち向かえ」

トークリレーの最後は「2019-2024 未来に立ち向かえ」と題して、2019年から在籍する村田航一キャプテン、2018年~2019年も所属していた黒川淳史選手、本間選手の3人が、躍進した2019年、コロナ禍、現在について語りました。
1ゴール差でプレーオフに届かず、瀧澤修平選手の涙のヒーローインタビューが印象的な2019年について、「タレントが結構いたし、最終戦の岡山戦のスタジアムは忘れられない。水戸史上最高の雰囲気でした。あれを越えたいなという思いです」と本間選手。
村田選手は「僕もあの景色をもう一度観たいと思ってサッカーをやっています。プロ一年目の年なのでサッカー選手になれた喜びもあり、清水慎太郎君、松井謙弥さん、外山凌君などユニークで素晴らしい先輩達がたくさんいらっしゃって、怒られたりもしたけれど、色々と楽しい経験ができました」と語り、黒川選手は、「当時は小僧だったのですが、皆さんに助けてもらって活躍できたなと思います」と振り返ります。
同年で印象に残った試合について、黒川選手はホーム徳島戦のゴールを挙げ、「なかなか点を取れない中、あのゴールでサポーターのところに駆け込めたのは自分の中で印象的です」と語ります。
ゴール後はバックスタンドへ一直線に駆けていくことが多い黒川選手ですが、「幸司さんと約束した時だけは、そっちに行きます(笑)」という後輩発言に観客は爆笑。
村田選手は選手交代の影響で最終的にFWからボランチまで任された天皇杯の浦和レッズ戦を選び、「普通は一試合10~11キロなのに14キロも走っていて、それなのに全然セカンドボールが取れなくて。どれだけボランチのセンスがないんだろうって思いました(笑)」と観客の笑いを誘います。

【写真 米村優子】

リーグや応援の中断などを余儀なくされたコロナ禍の話題では、「無観客は特にきつかった。いつまで続くのか、また元に戻るのか分からず、毎回練習試合をしているようで面白くなかった」と本間選手。
村田選手は「選手からも『サッカーやっている場合か?』という疑問の声が出て、僕自身もサッカー選手の存在意義を考えたり、無力感も感じた。再開した時にはサッカーをやれるのは当たり前じゃないと感じられました。振り返れば、自分の源になるような時間になったと思います」と心境の変化を語りました。

【写真 米村優子】

30年の歴史を紡いできた数々の先人達から重いバトンを受け継いだ現在のチーム。
降格圏が目前に迫る中、J2残留を死守すべく、リーグ終盤戦での浮上を試みています。
今回のイベントを冒頭から見ていた村田選手は「自分達が長い歴史の一端を担っていると感じましたし、絶対に水戸を降格させてはいけないと感じました。ここから上に上がっていきたいという気持ちが改めて沸きました」と意気込みを語ります。
今季の命運を握るキーマンの一人である黒川選手は「今季はこれから巻き返し、J2残留していきたいです。水戸はこれから2019年を越えるシーズンを過ごさなければいけないですし、絶対にできると思います。『2024年があったからこそ、水戸が良くなった』と言われるようなシーズンにしていきたいと思います」と決意を口にします。
ミスター・ホーリーホックの本間選手は「30年という長さと重さと、繋いできてくれた人達に感謝の想いが更に沸きました。皆さんの力は本当に大きいので、これからもともにクラブと歩んでくれたら幸せです。これからもよろしくお願いします」と選手を代表して挨拶をしました。

【写真 米村優子】

冨田監督は「クラブは色んな苦しい状況があった中、その時に色んな決断をされた方がいるから今に繋がっていると思いました。今はユースの監督をしていますが、将来トップチームで活躍できる選手を育成できるように頑張りたいと改めて思いました」と力強く語ります。
細川コーチは、「色んな年があり、歴史が重なって今がある。これから先、未来を作っていくのは、ここにいるサポーターの皆さんですし、僕らだと思っています。僕の目標は、クラブを愛してくれる方がもっと多くなること。そのためにJ1昇格、新しいスタジアム建設など、水戸ホーリーホックでやりたいことがたくさんあります。水戸が契約してくれる限り、本気で頑張っていきたいです」と語ります。
寺田さんは「非常に色んなトークが繰り広げられ、知らないエピソードも聞くことができて、面白かったです。新しくサポーターになった皆さんは改めてクラブを知る機会になったのではないでしょうか?これからも水戸の歴史は続いていくので、是非皆さんとともに一緒に歩んでいきたいなと思います」と笑顔で語ります。
レジェンド達との再会の喜びを噛み締めていた佐藤は、「21年取材してきて感じることは、このクラブは一度も後退したことはないということ。成長スピードは色々とあるかもしれませんが、常に前進していると胸を張って言えますし、今日改めて実感しました。それは水戸に関わってきた人達の力であり、皆さんの力なんだと思います。今、苦しい状況が続いていますが、これも次のステップへの必要な痛み。これを乗り越えた先に、もっと大きな成功があるんじゃないかと期待しています。苦しい時だからこそ、みんなで力を合わせて、次のステップに進めればいいと思います」と力強く語りました。

【写真 米村優子】

選手として3年、指導者として19年在籍する森直樹監督は、「クラブ30周年で監督をやらせてもらい、非常に責任を感じています。ただ僕は一切、下を向かず、常に前を見ています。今までチームを支えてくれた素晴らしい選手達、チームスタッフ、パートナー企業様、各行政様、地域の皆様、そしてここにいるファンサポーターの皆様がいるから、今後もしっかり戦っていけると思っています。絶対にJ2残留をして、来年もまたこの舞台で戦います。そして、来年はもっと上を目指せるように成長していきたいと思います。悪い状況ですが、一緒にチームと前を向いて、上を向いて戦って下さい。これからも応援よろしくお願い致します」と水戸ファミリーに共闘を呼びかけました。

【写真 米村優子】

小島耕社長は「クラブは苦しい状況を迎えていますが、森が力強い言葉で絶対に残留させると言ってくれました。現場のリクエストに応えながら、現場を信じて、少しでも残留に近付けるよう、1%でもその確率を上げられる仕事をしていきたいと思っています」と残留への意気込みを語ります。
Jリーグは責任企業を持つクラブが増え、クラブの生存競争が激しくなる昨今、常に攻めの経営を続ける小島社長は、「新潟や甲府など、我々の後に生まれたクラブがJ1に行き、アジアに行っています。水戸はできますか?やりましょうよ、皆さん!」と呼びかけると、賛同の拍手が会場に響きました。
「このクラブは皆さんのもの。地域の宝であって欲しいです。クラブが強くなり、J1に行くことも大切ですが、31年、50年、100年と続く礎をしっかり作っていくことも大事です。一歩一歩の前進を毎日作っていきたいです。引き続き、熱く長いサポートをお願いします」と語り、イベントを締め括りました。

【写真 米村優子】

今季の全ゴールシーン、クラブ公式YouTubeチャンネルで配信中のTWELVEの抜粋シーンが流れた後は、登壇者やクラブスタッフがハイタッチで来場者をお見送りし、30周年イベントは幕を閉じました。

【写真 米村優子】

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ