デイリーホーリーホック

森勇人選手インタビュー(前編)「自分がこういうサッカー選手でありたいという姿を表現できたし、表現しきった4年間だった」【インタビュー】※無料記事

【写真 水戸ホーリーホック】

今季限りで水戸を去る決断をした選手たち。
ただ、誰もが水戸ホーリーホックのエンブレムに誇りを持ち、サポーターと喜びを分かち合うためにすべてを出し切った。
「移籍」という言葉の背後にある葛藤。そして、クラブとサポーターへの感謝の思い。
水戸ホーリーホックの一員として、最後にすべてを語ってもらった。

Q.水戸を離れ、新たな環境に挑む今の心境はいかがですか?
「今はすごく整理されています。新しい環境に飛び込んでいくということにワクワクしています。今年は10月23日にシーズンが終わり、すでにオフに入って2か月が経っています。なかなかここまで時間をあけて、次に向かえるというシーズンというのはあまりありません。その中で決断して、考えて、進んでいくことができました。決断してから、少し時間が空いたので、今はすごく楽しみな気持ちです」

Q.決断する時は葛藤があった?
「できる限り、赤裸々に話したいと思います。やっぱり、とにかく試合に出たいというのが、シーズンが終わった時の率直な思いでした。最後の2試合のダービーで素晴らしいゲームをして、最高のシーズンの終わり方ができたと思います。とはいえ、一人の選手として、その渦中にいられないことへのもどかしさもあったんです。若い選手がすごく躍動して、最後のゴールなんて何歳の選手たちが関わって点を取ったんだみたいな。アンダー23どころか、アンダー21でしたからね。あのシーンは秋葉さんのサッカーの象徴だと思うし、クラブとしての視点でも素晴らしい得点だったと思うんです。ただ、僕個人の視点になると、若い選手たちが躍動して決めたゴールをスタンドから見ないといけない悔しさやもどかしさがありました。なので、まずそこにフォーカスをしようと思って、いろんなことを考えました」

Q.讃岐からオファーが来た時には、水戸にいるやりがいも感じていたと同時に、試合に出たい思いもあり、両方の思いを天秤にかけて決めたのでしょうか?
「まず伝えたいのが、昨季の成績で契約延長のオファーをしてくださった水戸ホーリーホックに本当に感謝しているということ。シビアな世界に生きてきたので、契約満了になる可能性のあるような成績だったと個人的に思っていました。それでも、水戸はちゃんと契約延期のオファーを提示してくださったんです。本当にありがたかったです。西村(卓朗)GMとも本当にたくさんいろんな話して、そこで一つ自分の中で答えを出した上で讃岐さんからオファーをいただいたので前向きに考えました」

Q.GMとの話し合いを進める中でより試合に出る機会を得るために移籍も考えるという答えにたどり着いたということでしょうか?
「ピッチ内の話だけではなく、ピッチ外のことやプライベートなことまでいろんな話をしました。そうした会話の中で最後はサッカー選手として決断をしたらいいんじゃないかみたいな答えを提示してくれたので、決めることができました」

Q.水戸での4年間で森勇人という存在が明確になったと思います。本当に濃い時間を過ごした実感があるのでは?
「成長って言葉で片づけていいのか分かりませんが、自分がこういうサッカー選手でありたいという姿を表現できたし、表現しきった4年間でしたね。幼い頃からサッカー選手になりたくて、実際になることができました。でも、プロ入りしての5年間はなかなかピッチに立てないし、やりたいことも表現できなかった。19年に水戸に加入して、ホソさん(細川淳矢選手)と会って、俺はこういう人になりたいとすごく思ったんですよ。本当にサポーターとの距離が近くて、誰からも愛されている姿を見て、サポーターとこういう関係性だから、水戸のスーパースターと言われるんだなと感じたんです。もちろん、それは(本間)幸司さんも同じです。幸司さんのサポーターやパートナー企業や地域の方々への振る舞いを見たら、『自分が目指すべき姿はこれだな』と。水戸ホーリーホックの選手としてあるべき姿これなんだと見て感じました。その時、俺は2人のようになるんだと心に決めたんです。その思いを持って、起こしてきた一つ一つの行動がこの4年間に詰まっているんじゃないかなと思います」

Q.その二人との出会いが大きかったのですね。
「はい。あとはMake Value Projectなどを通して、何のためにサッカーするのかということが明確になったことですね」

Q.水戸のような小さなクラブに来て、感じたものが大きかった?
「本当にそうです。水戸に来る前に在籍してきたG大阪や名古屋の日本代表クラスの選手のあり方って、ある意味周りの方々と離れてれば離れてるほどすごくカリスマ性が出て、いいんですよ。高ければ高い位置にいる方が格好いいみたいな感じがありました。僕もそんな選手たちを格好いいと思っていました。ただ、ユースからトップに上がった後、その姿を追い求めて、そういう存在になることが本当に大事なのかと考え直したところ、自分の中でクエスチョンマークが出てきたんですよ。この間まで高校生だった選手が、日本代表クラスの選手たちと同列ではないんですよ。でも、その時の振る舞い方をあまり整理できていなかったんです。もちろん、ファンの皆さんとの接し方のベースはその時からありましたけど、明確な答えを見つけられなかった。水戸に来て何のためにサッカーするのかという答えを見つけることができて、『誰からも愛される選手になる』『心を揺さぶる選手になる』というキーワード・スローガンができたからこそ、自分のやるべきことが明確になりました」

Q.答えを求めて水戸に来たわけではなく、水戸に来たら答えを見つけることができたということでしょうか?
「そうなんです。ホソさんや幸司さんといった、いわゆるクラブのレジェンドと呼ばれる人の振る舞いを見た時、僕の理想とするサッカー選手像と合致したんです」

Q.加入当時はまだクラブの風土はあいまいなところも多かったと思うんです。でも、細川選手や本間選手、森選手が真摯に取り組んだことによって、徐々に浸透していったような印象があります。チームの変化を感じましたか?
「この4年間、僕も水戸ホーリーホックの中にいたので、外から見ている方や長くクラブを見ている方と比べると変化の感じ方は分からないかもしれないですが、クラブとしてものすごいスピードで成長している渦中にいるんだということを感じることができていました。経営規模は大きくなっていますし、様々な取り組みの幅も広がっていきました。実は、水戸に加入する時、自分ができることは全部やろうと決めていたんです。クラブに求められたことは全部やってやるという気持ちで来たんです。そしたら、たまたまMake Value Projectがあったんです。サッカー選手はピッチの中で結果を出せばいいでしょという世界ではあるのですが、人として成長するからこそ、サッカー選手としての価値が上がるという明確な答えを見つけることができました。その時の自分に対して、水戸の取り組みや考え方はすごくマッチしたんです」

Q.「サッカー選手はサッカーに集中すべきだ」という考えの人もいるじゃないですか。そういった声に対して、どのように感じていますか?
「プロサッカー選手は誰だって結果を出したいんですよ。結果を残したい。Make Value Projectのような選手としての価値を高める作業をしている時に結果が出ていないと逃げているんじゃないかと思われてしまうんです。その考えもめちゃくちゃ分かります。ピッチ外のことを頑張っても、ピッチ内で結果を出せなければ意味ないと言いたくなる気持ちも分かります。けど、だからといって、僕は結果を出すことだけにフォーカスする作業が結果につながるとは思ってなくて、実際自分は名古屋とG大阪の5年間で伸ばせなかったし、結果を残すことができなかった。今はサッカー選手の価値を高めることや森勇人の価値を高める作業をすることが結果を出すための一番いいやり方なんじゃないかと思っているんです。むしろ、ピッチ外の活動を頑張ることが、サッカーが一番うまくなる方法なんじゃないかと本気で思っているんです。だから、こういうことをやってるわけなんです。それを見つけられた4年間でしたね」

Q.そういう活動することによって感じたことが、プレーに影響が出るのでしょうか?
「本当に出るんです。たとえば、YUTO SEATに関しても、これだけの人が僕のことを応援してくれてるんだと気づくことができるんです。今季はスタメンではない時の方が多かったです。ベンチに入りながらも、交代枠をすべて使い切って、試合に出られなかった時はやっぱりいい気持ちではないんだけど、そこで試合前に交流した子どもたちの顔が浮かぶんですよ。その子たちにとって、この試合がどんな思い出になるかなって考えると、最後まで90分間戦い続ける姿を見せることが、彼らにとっていい思い出になるんじゃないかなと。少しでもいい思い出になって、帰ってほしいなと。さらには水戸ホーリーホックが勝利することが一番の喜びなんじゃないかなと思うんですよ。では、僕が試合に出られなかったとしても、勝利に貢献できることをやろうと思って、ただベンチに座っているだけじゃなくて、声をかけたりとか、水を持って行ったりだとか、そういうことをやっていました。でも、幸司さんは、そんなことを当たり前のようにやっているんですよ。本当にすごいなと、尊敬する僕の大好きなサッカー選手だなと思いながらいつも見ていました」

Q.その思いは90分だけではなく、365日ずっと持ち続けていますよね。どんなに悔しい思いをしても、ぶれずに自分の課題と向き合っていく強さがあります。その根底にはそう言ってるサポーターやスポンサーの方との触れ合いとかがあるんでしょうね。
「本当にそうです。ただ、最初は、とにかく自分がピッチの中で証明したいというエネルギーがめちゃくちゃ強かったんですよ。それで、20シーズンから試合に出られるようになりました。でも、自分だけの思いって、やっぱり限界があるし、そんなに大きいものじゃないんですよ。その思いにプラスして家族の思いがあったから、ピッチの中で元気な姿を見せることが一番の恩返しだという思いが自分の大きな力になっていましたし、さらに、そこにサポーターへの思いやリリースで名前を挙げさせてもらった場所や人たち、パートナー企業さんもそうだし、そういった方々の思いを感じることができているからこそ、どんな時でもぶれずに頑張ることができているんだと思います」

【写真 水戸ホーリーホック】

Q. 水戸加入2年目の20年は開幕直前までサブ組の控えという立場でした。でも、そこで下を向くことなく、日々アピールして自分の序列を上げて、多くの出場機会を得ました。あの時の這い上がり方に森選手の強さをすごく感じました。
「あのタイミングですごく良かったのは、変化することを怖がらなかったこと。自分の表現したいことというか、自分の枠の中にある考えで提示するんじゃなくて、監督・コーチから提示されたものに対して、それが自分の考えの範疇にないものだとしても、そこにどうアジャストするために自分を変えていくか。それをうまく表現できたことによって、サッカー選手としての寿命が延びたんじゃないかなと思っています」

Q.秋葉監督が就任して、サッカーも変わって、求められるものも変わった。その変化に柔軟に対応したということでしょうか?
「長谷部さんのもとではほとんど出場機会がなかっただけに、監督が替わることは自分としてはチャンスだと思っていました。とはいえ、それまで結果を残せていなかっただけに、厳しい立ち位置からのスタートになることも予想していました。正直、その時に移籍する選択肢もありました。でも、秋葉監督に自分を認めさせたいと思って、水戸に残ることに決めたんです。始動したら、やっぱり厳しい状況からのスタートでした。『これは厳しいな』と思うこともありました。相手の評価は、自分が変わらない限り変わらないと思うんですよ。じゃあ、自分が変わるしかなかった。それで自分を変化させることを心に決めました。変化することを怖がらなかった。やり続ける強さのベースを身につけることはできていたからこそ、どんなことがあってもやり続ける覚悟を決めました。そこで飛躍的に成長できたという実感がありました」

Q.昨季は序盤に素晴らしいゴールを決めました。森選手の本来のよさを見ることができました。
「その実感はありました。昨季感覚がすごくよくて、ゴール以外のプレーに関しても、いい感覚でプレーできていました。特にアウェイの金沢戦は今シーズンベストのパフォーマンスでした。ボールにたくさん触って、パス&ムーブして、攻撃のリズムを作りだすことができていました。自分としての理想とするプレーができたゲームでした」

Q.金沢戦は途中から3-5-2システムに変更して、インサイドMFになってから、森選手が存在感を発揮したように感じました。その後、一時期、チームとして4-2-3-1を使っていた時期あったじゃないですか。個人的には森選手のトップ下を試してもらいたかったという思いがあるんですよね。たくさんボールを触れば触るほど、森選手のよさが出ると思うんですよ。
「監督が決めることだからしょうがないけど、秋葉さんは僕のストロングポイントをそこだけではないと思ってくれていたんだと思います。運動量や献身性を高く評価してくれていたんだと思います。求められるのならば、それに応えないといけないですから。で、そういうイメージがチームの中でも浸透していた。そういう現状を変えたくて、環境を変えたいという思いがありました」

Q.元々は献身性よりも攻撃力を武器とする選手ですからね。水戸で生き残るため、それこそ、20年に自らを変えたことにより、それ以降、運動量や献身性を持ち味とする選手というイメージが浸透してしまった。金沢戦で本来の森勇人選手を見た気がしました。
「そうなんです。水戸は耐える試合が多いですし、相手に合わせて守備から入るゲームも多い。だからこそ、そういうプレーもできないといけなくて、それにもある程度対応できるようになる必要がありました。その上で、金沢戦のような本来の自分のよさを存分に発揮することができたことは大きかった。なので、確かにトップ下でプレーしたい思いもありました。とはいえ、それを決めるのは監督ですから」

Q.本来の武器で勝負するための移籍でもあるのですね。
「周りからの評価は変わらない。変わるのは自分。『俺はこれできるんだよ』といくら訴えても、周りがそういう評価をしていないのならば、自分が言ってるだけになってしまう。自分が成長したい、変化したいんだったら自分が変わる必要がありますし、もしくは、やり方を変えないといけない。なので、自分を変えるために移籍を決めました」

 

※後編(有料記事)に続く

 

(取材・構成 佐藤拓也)

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