【2025シーズンスタート直前!】「横浜FCとオリヴェイレンセ、二つのクラブをしっかり経営していくのが私の一番重要な仕事」……山形伸之CEOロングインタビュー 前編【無料記事】
ハマプレ読者の皆さん、お待たせいたしました。昨年12月に行われた横浜FC・山形伸之CEOのロングインタビューをお届けします。
山形CEOは横浜FCの最高経営責任者であると同時にオリヴェイレンセのプレジデントでもあり、ONODERA GROUPのマルチクラブオーナーシップ(MCO)を主導しています。今回のインタビューでは、山形CEOのサッカー界での歩みを振り返るとともに、オリヴェイレンセ買収と横浜FC・CEO就任のいきさつ、MCOの取り組み、横浜FCの昨季の振り返りと経営面を含めた今後の課題まで多岐にわたって語っていただきました。
なお、今回のインタビューをより理解するために、2023年10月の弊コラム『【無料記事】ONODERA GROUPはマルチクラブオーナーシップで何をやろうとしているのか?【いちばん分かりやすい解説・前編】』と、『ONODERA GROUPはマルチクラブオーナーシップで何をやろうとしているのか?【いちばん分かりやすい解説・後編】』も併せて一読していただくことをお勧めします。なぜポルトガルなのか、なぜオリヴェイレンセなのか、そして移籍金ビジネスについても詳しく解説しています。
インタビューが行われたのが昨年12月ですから、『今年』や『今季』は2024年を、『来年』『来季』は2025年を指すことをご留意ください。2025シーズンの編成に関しては昨年同様、田端秀規GMにあらためて取材を申し入れる予定です。まずは山形CEOが初めて語る横浜FCのビジョンを、皆さんにも共有していただければ幸いです。
(インタビュー、文、写真/芥川和久。実施日/2024年12月23日)
▼若い日本人選手たちが行けるクラブを海外に作りたかった
──本日はお時間をいただき、ありがとうございます。まずは山形さんのここまでの歩みについてお聞きしたいと思います。高校、大学とサッカー部でプレーして、シント=トロイデン代表の立石敬之さんが先輩にあたるということですが、大学を出てからの経歴は?
「サッカーとは全然関係ない一般企業に就職して、『仕事では』サッカー界にいなかったという感じですね。私が大学を卒業した年(1992年)にちょうどJリーグが始まって、まだJクラブは10チームしかなく、サッカー界に進む人は少なかった時代でした。ただ、就職先で国体に出させてもらったり、アマチュアとしては活動していました」
──2006年にHBO東京(現在はHBO品川)の代表に就任されたのは?
「それは仕事を辞めてとかではなくて、あくまでアマチュアの話ですよ(笑)。それまで少し、学生に教えたりとかもしていたので、そういう若い人たちから『チームを作りたい』と相談を受けて、私が代表という形でチームを作ったのがきっかけでした。『代表に就任』というと大層な響きですけど、要は普通にチームを作って東京都リーグ4部から始めて、その代表者にさせられて、お金のこととか面倒くさいことを全部やらされたというだけで(笑)。設立当時はなるべくお金がかからない形でサポートして、たとえばユニフォームとか普通はメンバー個人が買わなければいけないところを私が自費で買いそろえたり、活動費も基本的には取らずに、若い人たちのやりたいことを手伝ってあげたいと思って始めたのがきっかけです」
──HBOのHPを見ると、都リーグのチームながら「サッカーを通じて海外に挑戦する夢と希望と野心をもった選手を応援する」というのがクラブのコンセプトとして記載されています。その後の山形さんがシント=トロイデンやオリヴェイレンセでやろうとしてきたことから見ても、その思いは一貫しているのかなと思いました。
「いや、一貫しているというよりも、『流されて』という感じですね(笑)。若い人で『海外に行きたい』という人を手伝ってあげたいなと思ってやってただけで。そのあとに東京23FCにもかかわりますが、そこは海外にというよりは普通に都リーグからJを目指そうというクラブでした。その後、私自身がサッカーの仕事をするようになったのがきっかけで、海外に行きたい子たちを支援してあげられたらいいなと。HBOの設立当時はサッカーの仕事もしてないのにそんなことをやるのもおかしな話なので(笑)、サッカーを仕事にし始めたころに自分が代表をしている会社でそういう部署を立ち上げました」
──それが株式会社ファンルーツ事業部長としての活動に?
「それは『高校サッカードットコム』などをやっている、サッカードットコム株式会社ですね。ちなみに高校サッカードットコムを作ったのは私なんですよ(笑)」
──今年は横浜FCユースの試合にも高校サッカードットコムの取材がよく来てましたね。
「今年はアカデミースタッフの皆さんと選手達が本当に頑張ってくれてユースも結果を出しましたからね。話を戻すと、選手を海外にというのはサッカーの仕事を始めてから、自分の会社で手伝えたらいいなというところが始まりですね」

▲「海外に行きたい夢を持った若い選手を応援したい」という気持ちはずっと変わらない
──そして立石さんとシント=トロイデンの経営権取得にかかわったのが2017年ですね。
「正確に言うと、『立石さんと』ではないんです。立石さんと私がそういう話を、『これから日本サッカーにとって必要なものは何か』みたいなことをよく飲みながら話すことがあって、『やっぱり日本企業が海外のクラブを持つことがこれから重要になってくるよね』と話していたのは事実です。でも立石さんは当時FC東京のGMをやられていたので、なかなかそういうことをできる立場ではなかったけど、私はサッカービジネス、サッカー周辺のことをやる会社にいたので、言ってしまえば何でもできる。なので『こういうビジネスになりますよ』という提案書を作って、いろんなところを営業して回っていったのがきっかけですね。ただ、それが形になってきたときに、海外でしっかりクラブ経営の仕事をできる人が私には立石さんしか思い浮かばなかったので、立石さんに『僕らで話してたことなんだから、やってくださいよ』とお願いして(笑)、それでFC東京を辞めてシント=トロイデンの代表になってもらったんです」
──その後、山形さんは19年にシント=トロイデンを離れて、オリヴェイレンセにかかわっていきます。シント=トロイデンでの現実と、山形さんの理想にズレがあったのでしょうか?
「いや、ズレがあったわけではなくて、あれはあれでもう完全に思い描いた通りというか、立石さんと話した通りになったし、日本サッカーのためにもすごく良いことができたなと思っています。冨安健洋選手、遠藤航選手とか鎌田大地選手と一緒に仕事をさせてもらって、私もすごく良い経験をさせてもらいました。ただ、ベルギーは労働ビザの関係もあるので、若い選手が行くにはすごくハードルが高い国なんです。オリンピック代表を目指すようなもっと若い世代の選手たちが行けるクラブがもう一つあればいいんじゃないかなと感じるようになったということですね」
──それが、「ではどこの国がいいのか?」から始まって、最終的にポルトガルになったと?
「今お話ししたように、若い選手が行ける場所がポルトガルにあるといいなというのはシント=トロイデンで仕事をしながらずっと思っていました。そして金さんは私の10年来の友達で、それこそ彼がアパートの一室でゲーム会社を立ち上げたころから知っていて、今では大成功して秋葉原の駅前の大きなビルのワンフロアを占有するまでになったのを見ていました。だから彼がすごい経営者であることは知っていましたし、友達付き合いもしながら彼も私の活動を見ていました。ちょうど彼にとっても次のチャレンジをしたいタイミングだったようで、『自分もそういうことがやってみたい』と。それで彼がクラブを買うという方向になりました」
──そこで「言い出しっぺなんだから」と山形さんが社長に就任することに?
「金さんはベンチャーの経営者なので、どんどん動くタイプなんですね。チーム探しから彼がやる中でたまたま良いクラブが出てきて、『一緒にやろう』という話になりました。私としては、シント=トロイデンは立石さんに来てもらって、日本人が行くチームがまず一つできた。次は、もっと若い世代が行ける場所を日本の企業が投資してくれるなら、そこを手伝って、また日本人が行けるところが増えればいいなという気持ちがありました。そこでDMMの役員の方や立石さんともお話しして、『応援していただけるなら行きたい』と。競合だとは思っていないので、仲間として、日本サッカーのためにもう一つ(海外に日本企業が経営するチームを)作れたらいいなと思っているから、応援してもらえないなら行けないけど、応援してもらえるなら行きたいということで、両者に承諾をいただく形でチャレンジさせてもらったというわけです」