【インタビュー】 北村知隆「プロ2年目でアウトになりかけて、チャレンジする気持ちの大事さを思い知った」……OB数珠つなぎ第4回・中編
かつて横浜FCでプレーしたハマブルー戦士に当時の思い出をいろいろ語っていただき、次に登場するOBも紹介していただいてOBの輪をどんどんつないでいく予定のこの企画。第4回は2001年から06年までプレーした北村知隆さん。退団から現在までを語った前編に続き、この中編からはいよいよ横浜FC在籍時代を振り返っていただきます。また選手時代の写真はすべて北村さんからご提供いただきました。
(聞き手/芥川和久、取材日/2024年9月14日)
▼「最初はヘタクソで面白くなくて、サボって友達の家で遊んでいた」
──ではいよいよ、横浜FCでプロになるまでと、横浜FCでの6年間についてたっぷりお伺いします。北村さんは1982年5月27日生まれで、四日市市出身。ウッチーこと内田智也さん(現横浜FCクラブリレーションシップオフィサー) の1年先輩ですね。
「はい。まあ向こうは先輩だと思ってないと思いますけど(笑)」
──四日市といえば四中工(四日市中央工業高校)ですね。
「自分がサッカーを始めたころに、四中工と帝京高校の両校優勝(1992年、第70回全国高等学校サッカー選手権大会)があって、『三羽烏』と呼ばれた小倉(隆史)さん、中西(永輔)さん、中田(一三)さんがいて……。まあ昔は『四中工と言えば!(押しも押されもせぬ強豪)』という感じでしたけど、自分たちの代あたりでは全国大会で結果が出てなかったので、『古豪だよね……』と呼ばれるような感じになってました(笑)」
──サッカーを始めたきっかけは?
「今アフェラルセ四日市をやっている親戚が四中工を応援していて、サッカーをやっていたので、きっかけで言えばサッカーを『やらされました』(笑)。Jリーグが始まるまで、サッカーってそんなにメジャースポーツじゃなかった気がします。自分が小さいころはやっぱり野球のほうが、テレビでもやってましたし人気があったと思いますよ。『サッカーをやれ』って言われたのが小学校2年くらいで、それまでサッカーはよく知らなかったです(笑)」
──おそらく運動は好きで、足も速かったかと思いますが?
「そうですね。水泳は習ってましたし、運動会とかマラソン大会では上位でした。まあたぶん、家でゲームしてるのをどうにかさせようと思って、ウチの母親と親戚の思惑が合致したんじゃないですか(笑)」
──サッカーを始めてみたらメキメキと上手くなって?
「いやいや、そんなことないですよ。当時は3年生から始めるのが普通だったと思うんですけど、もうちょっと前から始めた子たちもいて、みんなで一緒に練習するとやっぱりヘタクソで。サッカーに行ってもボールが回ってこないし面白くなかったので、行くフリをして友達の家に遊んだりしてましたね(笑)」
──それがどうして四中工に入るまでに?
「そんなんだから、やめさせられそうになったんですよ。でも当時はみんな同じ小学校のチームだったから、やめると学校でちょっと疎外感を感じるというか、『逃げたヤツ』みたいになってしまうので(笑)。事実ヘタクソだったけど、『ヘタクソだからやめた』みたいになるのはちょっと嫌だなと思って、そこから『何とか勝てそうな子から勝っていこう』と(笑)。いきなり上手い子に勝つのは無理なので、自分と同じくらいの実力の子たちに勝っていこう、みたいな(笑)。結局、負けず嫌いだったんですよね」
──負けず嫌いは大事ですね。
「本当に(笑)。そこからけっこうボールが回ってくるようになったり、ゴールできたりして、面白くなっていきました」
──そのころ憧れていた選手は?
「当時は『怪物』のほうのロナウド(元ブラジル代表)に憧れていて、シューズとかもキラキラしたやつが欲しかったり(笑)、当時コーチをしていた人もドリブル推しだったので、ドリブルはけっこうやりました。今のドリブルが上手い人たちほど練習してないと思いますけど、ある程度はできたと思います。ただ、小学校6年生のとき辺りで『いっぱい点を取りたい』という考えのほうが強くなって、結果、憧れの選手をラウール(ゴンザレス:元スペイン代表)に変えて(笑)。ラウールは裏抜けがめちゃくちゃ上手くて、パスを受けたらほぼチャンスという感じなので、気持ちが『楽に点が取れるほうがいいな』というところに行ってしまって(笑)、裏にパスをもらってキーパーと1対1を決めるというのが当時の得点パターンの8割くらいでした」
──中学校ではどんな感じでしたか?
「普通に地区の中学校の部活でした。三重県にはクラブチームは1チームしかなくて、愛知まで行くほどのレベルでもなかったので。小学校のとき、自分たちは県で優勝してフジパンカップ(現在も続く地域別の少年サッカー大会)の東海大会に出場したりしてたんですけど、そのメンバーがそのまま中学でもやれた上に、ラッキーなことに自分がその中学校に上がる数年前に、ちゃんとサッカーを指導できる先生が赴任してきてくれたんです。中学校3年生のときにはまた県の大会で優勝して、高円宮カップの東海大会にも出場しました」
──そのころには地元で有名な選手に?
「いや、そんなでもないです。一応、県のトレセンには入ってましたけど、そこでの中心選手ではなかったですし、強い高校に行くか、普通に進学校に行くか迷ってましたね。ただ、夏に三重県の県選抜で海外遠征があって、オランダに行かせてもらって、海外であらためてサッカーの面白さも感じましたし、それで夏に勉強しなかったので成績が下がったのもありましたし(笑)、高円宮カップでエスパルスのジュニアユースにボコボコにされて、『このままでは終われない』というのもありました。当時は相手が静岡勢となったら、東海地区の僕らはビビってましたね(笑)」
──当時の清水ユースには誰が?
「村松潤とか鈴木隼人とか、2人しか名前を思い出せないけど、たぶんJリーグに行った人が5、6人くらいいたと思います。その清水ユースが静岡2位で、1位は東海大一中、今の東海大翔洋でした。佐野裕哉とか、横浜FCで一緒だった河野淳吾(2008年にサッカーを引退し、その後競輪選手となったことで知られる)がいました。そこは全中(全国中学校体育大会)に優勝しましたね」
──さすが王国静岡ですね。
「その静岡に負けたまま終わっていいのかという葛藤もあり、四中工に行く決心を……。でも、全国優勝した強豪だし、『四中工に行っても試合に出られるのかな』というのは正直ありました。小倉さんたちがいた当時の話を聞くと、『県トレセンに呼ばれるよりも四中工のAチームに入るほうが難しい』と言われたくらいで。だから県トレセンでレギュラーかどうか微妙な自分が行って大丈夫かというのはありましたね」
▼「プロになってジムに行ったとき、『お前はまず腕立て・腹筋・背筋を30回』と(笑)」
──四中工ではどんな方たちがいましたか?
「一つ上に、横浜FCにもレンタルで半年くらいいた中尾康二さん、今はヴィアティンで強化をやっている加藤秀典さん。一つ下には内田、二つ下にはグランパスに行ったキーパーの西村弘司、フロンターレに行った飛弾暁、そんな感じでした。入学したときは、僕は県内からだったし県トレセンにも入っていたので2月とか3月から試合に呼んでもらって、最初に出た試合でまあまあ点を取ったので、Aチームの試合にも出してもらえるようになりました。たまたま最初の一発目が良かっただけなんですけど(笑)」
──そういう『ここぞ』というところで結果を出すのは大事かと。
「そうですね。人から聞かれたときにも、『大事なときに結果を出せるかがすごく重要』というのは言ってますね。それが実力じゃなかったとしても(笑)。スカウトの方が見てくれたときに固くなっちゃって、それ(スカウト来場)を知らずにその試合でたまたま活躍したほかの選手がスカウトされたみたいな話って、よくあるじゃないですか。自分はナチュラルで起きちゃった現象でしたけど、『そういうところにどうやって持っていけるかを考えたほうがいいよ』と今はよく言いますね。自分は初めて挑むときに、『大丈夫かな』と不安になるよりも、『当たって砕けろ』みたいな感じで行けるタイプだったので、それが良い方向に転がってただけなのかなと思いますけど(笑)」
──四中工では全国制覇を果たせず終わりました。
「1年生のときの選手権ベスト16が一番良かったですね。1年生から試合に出ていましたが、2年生になると責任感とかが出てきてダメになるタイプでした(笑)。思い切りの良さがなくなって。だからそれも、子供たちに教える上で生きてますね。やっぱりワクワクできるようにやったほうがいいし、守りに入っちゃうと……。たとえば『レギュラーを維持しなきゃ』とか、それは本当にプロでも、横浜Cのときもあったので、それよりも常に上を目指してチャレンジして、失敗を恐れずやることが本当に大事だと思います。1年生で最初から変に試合に出て、そこでベスト16なんか行っちゃったせいで、2年生からはマークされるのとともに『ヘタなプレーできない』となってしまった。それは楽しめるメンタルではないですよ。結局、2年生の選手権は1回戦で負けて、3年生のときは県の決勝で暁高校に負けているので、悪くなってますね」
──ちなみに次の年のウッチーさんの代は?
「ベスト4です(笑)」
──高校時代のライバル的存在は?
「暁高校の同学年で、セレッソに行った米山大輔です。よく比較されました。国体では米山がFWのエースで、僕はサイドでした」
──当時プレーで意識していたのは?
「誰か選手に憧れるというより、もう現実的になってきたので、『自分みたいなスタイルだったらこれぐらいできなきゃダメ』ということを考えていました。絶対的なスピードがあったわけじゃないけど、自分みたいな身長(171cm)で線も細かったので、『初速の10メーター、20メーターで勝てなきゃダメだ』と思って、3年生になる前はすごく自主練しました。タイヤ引きとかやってましたね(笑)。ただ正直、『プロでFWとしてやるのはどうだろうな』と思ってました。ポストプレーとかできなかったですし、やっぱり当たられるとダメだったので。今は66kgあって、プロのときも65kgくらいはありましたけど、高校時代は57kgくらいでめっちゃ細かったんですよ」
──横浜FCでのチームメイトで、今はトップチームでコーチをやっている小野信義さんに北村さんの印象を聞いてみたら、「うなぎ」という回答で……。
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