【無料記事】【インタビュー】 北村知隆「“本当にサッカーが好きな選手”を育てたい」……OB数珠つなぎ第4回・前編
笑っていいとも!方式でOBの輪をつないでいくインタビュー企画『OB数珠つなぎ』。第3回の臼井幸平さんにご紹介いただいて今回登場するのは、2001年に横浜FCに加入して06年までプレーした北村知隆さんです。
北村さんは三重県四日市市出身で、名門・四日市中央工業高校を卒業後に横浜FCでプロ入りしました。06年には初のJ2優勝&J1昇格に貢献するも、その年で契約満了となり、07年からモンテディオ山形に加入。山形でも08年のJ1昇格に貢献し、09年から11年までJ1で活躍。故障もあって12年までで山形との契約が切れた後は、地元のヴィアティンFC(現在のヴィアティン三重)で1年間プレーし、スパイクを脱ぎました。
現在は本田圭佑氏がプロデュースするソルティーロファミリアサッカースクールで、東海エリアマネージャーとして4校を担当しながら、『キタコーチ』として地元の子供たちの指導に当たっています。
現役引退から現在までを語った前編は無料公開。後編(中編&後編になるかも……)はプロ入りから横浜FC時代を振り返っていただきます。どうぞお楽しみに。
(聞き手/芥川和久、取材日/2024年9月14日)
▼樋口靖洋監督の誘いで山形へ
──北村さんは2001年から2006年まで横浜FCでプレーされましたが、横浜FCを離れるときはどういった状況でしたか?
「単純に契約満了という形です。ちょうど横浜FCがJ2で初優勝して、初のJ1昇格を決めたときでした。まだ24歳でしたし、引退なんて考えてなかったですけど、代理人もつけていなかったので、トライアウトを受けることにして。当時は移籍がそんなに盛んではなかったし、契約が切れた選手が次のチームを探すときにトライアウトもけっこう主流だったんですよ」
──今は多くの選手が代理人をつけていて、トライアウトは最後の手段という感じですよね。
「移籍のルールが今とは違ってましたから。今は一応ヨーロッパと一緒の基準でやっているから、契約が切れれば移籍金ゼロでサクッとほかのチームに行けますよね。たとえ主力選手であっても、その選手がチームを出たいとなったら、クラブ側が契約延長したくても引き抜かれてしまう。ところが当時はJリーグ独自のルールで、たとえば1年契約だったとしてもクラブ側に来年も契約する意思があれば、その選手が移籍するには移籍金がかかっていたんです。その移籍金も年齢に応じた『年齢計数』というのがあって、若手や中堅の選手は非常に高額になっていました」
──確かに若手や中堅でレギュラークラスの移籍はあまり盛んではなかった印象です。
「だからトライアウトにメリットがあったわけです。クラブ側としても、トライアウトに来てる選手というのは元所属クラブから契約の意思を示されなかった、絶対に移籍金なしで取れる選手ということなので、今よりもトライアウトから獲得する例が多かったと思います」
──それで山形から声がかかったと。
「はい。僕の母校の四中工(四日市中央工業高校)の先輩で、のちに横浜FCでも監督をされる樋口靖洋さんが当時モンテディオの監督をしていて。そのつながりもあったし、先に横浜FCから山形に移籍していた臼井幸平さんも僕が満了になったときに電話をくれて、『ちょっと上に話してあげるよ』みたいな感じで言ってくれて。横浜FCのときもそうですけど、臼井さんにはいろいろとお世話になりました」
──昇格を決めて、「来年はJ1でプレーできる」と思った矢先の契約満了だったと思いますが?
「ただ、試合数はそこそこ出ていましたけど、出場時間はそんなに多くなかったですから(先発6試合、途中出場26試合で、計922分)。使い勝手は良いけど、そこまで残したい選手ではなかったのかな。当時はまだ若かったですし、今は自分が指導する立場になって思うのは、本当にサッカーに向きあって努力していたかといったら、たぶん足りなかったんだと思います。自分にとって必要なものは何かとか、もっと成長するためにとか、周りで努力している人たちはちゃんとやっていたので」
──当時の北村さんはまだ24歳でした。
「今は情報がたくさんあるけど、当時はガラケー時代で、自分はパソコンも持っていなくて、あまり調べたりするタイプじゃなかった。人からいろいろ聞いて、自分に何が必要なのかをもっと考えて上を目指していく、そういうメンタルがあったらまた違ったのかなとは思います。当時は何となく思ってる気持ちはあったんですが、自分で自分のことを組み立ててできていなかった」
──では山形で、イチからのスタートという気持ちで?
「そうですね。自分のサッカー人生的に、何となく試合に出てたというのがずっと続いていて……。横浜FCでも自分で自分をそんなに良い選手だとは思わなかったですけど、幸いなことに1年目からけっこう試合に出させていただいて、そういう状況が続いて、もっと目標を大きく持てれば良かったんですけど、『何とかなる』という感じで来てしまった。だから、そこで一回アウトになって、拾ってもらって、試合でもスタメンで出ることが多くなったりして、責任感みたいなものも出てきたと思います」
──環境が変わった影響も?
「それも大きいですね。たとえば横浜FCのときはジムでウェイトトレーニング(筋トレ)とかは選手の自由に任されてたんですよ。山形では今の競技場のある運動公園内にクラブハウスがあって、それまで大してやってこなかったウェイトトレーニングもやらなきゃいけないってことになって、自然と体作りも意識するようになりました。ちょうどのちに小林伸二さんという、ハードなトレーニングで選手を鍛えるのが好きな監督が来たので(笑)、20歳代後半で大人になっていく体と、責任感などメンタル的な部分が上手く合致して、J1昇格に貢献できてその後も何年かプレーできたのかなと思います」
──やはり選手にとって、自前のクラブハウスがあってトレーニングの設備が整っていてというのは大きい?
「まあ横浜FCでも、選手に任せるといってもちゃんと指導管理するスタッフはいましたよ。それに、今の子たちはいろんな情報があったり、自分でトレーナーさんに師事したりする選手もいますけど、当時は情報もあまりなくて、どういうトレーニングが必要かというのは、本当に興味がないとたどり着けないところでした。もちろん自分でしっかりやってきた方もいるでしょうけど、当時Jリーガーになる人なんて多くは『何となく人よりできちゃう』という人だと思うんですよ。でもプロに入ると、しっかり体を作ったり、精神的にも大きくなっていかないと試合に出れない、活躍できないというのを分かってもらうためにも、そういうトレーニング環境をチームが作ってあげるというのは良いことなのかなと思います。ただ、それも昔の時代の話ですから。今はプロになった瞬間に代理人とマネジメント契約して、そっち側に言われてやる人もいるでしょうし。代理人としては選手の価値を上げたいですから。自分は現役時代は代理人なしで全部やっていましたけど、自分のことを客観的に見て必要なものやアドバイスをくれる存在がいるというのは大事で、それをチームができれば、本当に育成が良いチームになるのかなと思います」
──山形での1年目、2007年は先発出場37試合、途中出場6試合。出場時間は3000分を超えてキャリアハイの8得点を挙げています。
「本当に樋口さんに良くしてもらいました。横浜FCにいたときは途中出場で便利に使われるというか、変に器用だったのかなと。サイドもやりましたし、FWもやりましたし、中央のミッドフィールダーもやりましたし、リトバルスキー監督のときにはサイドバックもやったことがありました。その年はFWとして使っていただいて、のちに日本代表になる豊田陽平と組ませてもらって、僕みたいな動き回るタイプと、彼みたいに大きくてパワーもある選手とで相性が良かったんだと思います。あと、裏抜けに対してパスを出してくれる財前宣之さんもいて、やっぱりすごいパスが出てきました。だから得点数はその年が一番多かったですけど、たぶんもっと取れたと思います。けっこう外してた記憶もあるので(笑)」
──2008年も37試合に先発出場して5得点。この年に2位でJ1昇格を果たしました。
「この年はFWもやりましたが、右サイドがけっこう多かった。5得点とたぶん5アシストしていると思います。監督が小林伸二さんになって、この辺りで前線から守備を頑張ることを憶えたというか、後にJ1ではウイングで出るようになっていたので、サイドでのオフェンス、ディフェンスでの1対1を頑張った年でした」
──横浜FCではJ2優勝した年で満了になってJ1にはたどり着けませんでしたが、山形で昇格を達成したときの気持ちは?
「出場時間も多かったですし、2006年のときよりはチームが昇格する力になれたかなという気持ちはありました。そのとき契約満了になって悔しい思いをしたので、J1にチャレンジできる嬉しさはすごくありました」