HAMABLUE PRESS

【インタビュー】中島崇典「僕のクロスを決めてカズさんがカズダンスを踊ってくれたのが最高の思い出です」……OB数珠つなぎ第2回・後編

 

(前編はこちら)

(中編はこちら)

かつて横浜FCでプレーしたハマブルー戦士に当時の思い出をいろいろ語っていただき、次に登場するOBも紹介していただいてOBの輪をどんどんつないでいく予定のこの企画。第2回は2004年から07年、その後他チームを経由して12年の後半から15年までプレーした中島崇典さん。退団から現在までを語った前編、プロ入りから最初の横浜FC時代までの中編を経て、今回は福岡、柏を経て2回目の横浜FC時代を振り返ります。これで完結となります。また選手時代の写真はすべて中島さんからご提供いただきました。

(聞き手/芥川和久、取材日/2022年12月12日、12月22日)

 

▼“運”ってありますから、常にちゃんとやってることが大事ですね

――福岡には2008〜10年まで3年いたわけですが、08年はどうでしたか?

「相変わらず、リティのサッカーは自分を生かしてくれるサッカーでしたから、楽しかったですよ」

 

――FWにはハーフナー・マイクとジャンボ(大久保哲哉)。もうそこにどんどんボールを入れろという?

「はい(笑)。あとは布部(陽功)さんもいたし、(中村)北斗、ヒサさん(久永辰徳)、城後(寿)……、メンバーも良かったし、楽しかったですね。結果は出なかったけど。先輩たちもめちゃくちゃ良い人たちだったし」

 

――選手の補強の具合から見ても、J1昇格がノルマだったわけですね。リトバルスキー監督が7月に解任されて、篠田善之監督(来季からヴァンフォーレ甲府監督)が後任になりました。

「リティと最後に会った時のことなんですけど、珍しくすごいフテった顔で向こうから歩いてきたんですよ。僕が練習場に入って行って、すれ違いざまにハイタッチしてきて。その前の試合で俺、FKで点を決めてたんで、そのハイタッチだと思った。パチーンと叩いて、笑顔で『ラッキーでした』って言ったら、表情も変えずに去っていって。その後で解任って聞いて、リティにしたら『クビになったよ。今までありがとうな』みたいな感じだったんだなと。でも俺は笑顔で『ラッキー』とか言っちゃって(笑)。本当にヤバいというか、申しわけなかったというか……」

 

――誤解されてなかったらいいですね。

「まあ分かってくれてるとは思うんですけどね。でも本当に申しわけなかったのは、僕を福岡に呼んでくれたのに、力になれなかったことで……。それがけっこう自分の中では、メンタルを保つのが難しかった。自分も出て行きたかったですから。リティだけが責任を背負って……。僕で背負えるんだったら全然、クビにしてくださいって感じでした。でもそのあとにシノさん(篠田)が監督になって、それまでコーチだったんですけど、僕のそういう気持ちもケアしてくれて、ありがたかったです。僕の中では、シノさんの言葉一つ一つが心の支えでした。だから続けられたというか、切り替えられた」

 

――続いて09年は?

「あまり記憶がないんですよね(笑)。福岡としてもジョージアがスポンサーを撤退してたり、すごく安そうなブラジル人を補強してやってました。だから戦力的にも……、(中村)北斗とかもFC東京に移籍していって。まあ11位だったって、今聞くとそんな感じかという」

 

――元日本代表の田中誠さんが補強で加入してますが?

「マコさんは良い選手でした。キャラクターがいいっすよね。優しいし、後輩の面倒見もいいし、みんなにいじられたりもしてました。上に久藤さん(清一/現ツエーゲン金沢ヘッドコーチ)たちがいて、その人たちの距離感がかなり……。福岡って集まるところが一緒というか、チーム自体の仲はベテランから若手まですごく良かった。だからマコさんが来たときもすんなり入れて、めちゃめちゃ仲が良かったですね」

 

――リトバルスキー監督から篠田監督に代わって、サッカーはどう変わりましたか?

「継続路線でしたけど、縦へのスピードの速さは求められた記憶があります。自分たちのスタイルはありつつ、相手の分析をすごくする監督でした。相手の陣形がこうで、こうボールを動かしてくるから、それに対して自分たちはこうしていくぞという割合が多かった感じです」

 

――リティ監督はそういうのより、自分たち?

「そうですね(笑)。あまり相手は関係ないという感じでした」

 

――そして3年目の2010年、福岡はJ1昇格を果たします。

「その年は中町公祐、永里元気、末吉隼也とかが移籍や大卒で入ってきて、YouTubeでも言いましたけど、あの年が一番サッカーが楽しかったです。若い選手はイケイケだし、福岡の良さは上から下までみんな仲が良いから、ベテランから若手までマッチしてすごく強かったし、やってて楽しかった。マチ(中町)や永里とはベルマーレで彼らが練習生のときに一緒にやっていて、彼らがトップに上がったときには入れ替わりで出て行ってしまったんですけど、そういう知ってる選手が来たというのが大きくて、すごくやりやすかった。奇跡の多いシーズンでしたね。ゴールに関しても」

 

――天皇杯でもベスト8まで行ってますね。

「FC東京にロスタイムで追いつかれて、延長で負けました。石川ナオさん(直宏)にやられました(笑)。まあそれだけ強かったですよ。勢いもあったし」

 

――最終的にはJ2リーグ3位で昇格しますが、中島さんはそのオフに退団することに……。

「YouTubeで話した通りです(笑)。社長の手をパチーン!と……」

 

――それでチームに残ったとしても、あまり来年良いことはなさそうですね。

「まあ、自分が幼稚でしたね。もっと違う方法でやれば、もしかしたらジャンさん(大久保哲哉)の再契約もあったかもしれないし。選手が一人怒っても、何も変わらないですから。そこは後悔してますけど、運良くレイソルから声がかかって。12月のクリスマス前くらいにオファーが来て、急いで千葉に帰りました。地元の千葉に帰れるという嬉しさもありました」

 

――柏からはどんな評価を受けたんですか?

「僕は迷わず行ったので口説かれたりはしてないんですけど、左サイドバックを探してて、当時は橋本和一人しかいなくて、強化部と監督の意見が一致して僕に声がかかったという感じだったと聞きました。2010年は柏もJ2だったから、福岡でのプレーを見てくれてたんでしょうね。当たるタイミングも良かったのかもしれない。ちょうどレイソルとやる前の試合でアシストしてたり、当然、直前の試合は一番分析しますから、それで印象が良かったのかもしれないですね(笑)」

 

――そういう巡り合わせもあるんですね。

「はい。運ってありますから。だから普段から常に、ちゃんとやってることが大事ですね」

 

――ただ、チームとしてJ1優勝はありましたが、レイソル時代は中島選手にとってなかなか難しい時期になってしまいました。

「そうですね。みんなレベルが高かったです。ビックリしました。今まで自分がいたチームとは、個のレベルが高くて。(レアンドロ ドミンゲスら)ブラジル人も半端なかったですし。1年間通してあまりメンバーを変えずに、それも(2009年に)J1に落ちたときからもあまり変わってなくて、J2で1年間ほぼ同じメンバーで戦って、そこに僕が入っていったわけですど、まあ入れなかったですね。チームとして完成してました。試して使ってくれたりしましたけど、僕が入るとちょっとずつ歯車が狂っちゃうというか。八千代高校の一つ先輩の兵働昭弘さんも清水からその年に一緒に入ったんですけど、あんなすごい選手でもあまり入れてなかったですからね」

 

 

▼ダイさん(奥大介強化部長)がチームを一つにしてくれていた

――ネルシーニョ監督は自分たちのスタイルを追求するというより、相手に合わせて相手の嫌なことしかやらないというイメージがあります。

「いや、ネルシーニョは練習ではあまり相手に合わせたことはしないです。たぶんあれはネルシーニョの長年の勘でやってるんじゃないかな。守備でどこからプレスをかけてどこでボールを取るとか、それをサボる選手はマジで使わないので。それをやると誰であっても一瞬で外される。1対1でちょっと弱気な姿勢を見せたり、つぶさなきゃいけないところで行かなかったりしたら、そのワンプレーだけで2〜3試合は放置されます。攻守の切り替えのスピードを上げる練習を特にやっていたので、攻撃に行くのも速いし、守備に戻ってくるのも速いし。そのスピードで彼らは1年間かけてやっていたので、僕なんかが入っても全然遅くて、そこが遅いとズレていっちゃう」

 

――そのベースがある集団が、相手が嫌がることをやるから強いわけですね。

「そう思います」

 

――2011年の出場はリーグ戦3試合、ナビスコカップ1試合でした。

「試合には出られなかったですけど、ベンチで見てるだけでもJ2のときより勝利給は良かったです(笑)。45分以上出場だと満額、途中からちょっとでも出場すれば半分、ベンチだと1/4みたいな感じなんですけど、それでもです。わけ分からなくなりましたね。アビスパのときにあれだけ必死に頑張って、90分死ぬ気で戦って報酬をもらってたのが、レイソルのときは戦ってないわけじゃないけどベンチで声を出したりしてて、それで勝ってもらえる報酬がアビスパより良かったので。すごかったですね、世界の日立は(笑)」

 

――今までいたチームは基本的にJ2の予算規模のチームですから、ギャップがあったと。

「すごかったですよ。バスも合宿のときは2台出たりとか。僕が横浜FCにいたときはチームバスもなかったから。レイソルはバスも改造されてて、2席を1席にしたゆったり仕様になってて」

 

――レイソルで優勝したときの話もYouTubeで見ていただくとして、翌12年の夏に横浜FCに期限付き移籍で復帰した経緯は?

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