HAMABLUE PRESS

【インタビュー】中島崇典「横浜FCが拾ってくれたからサッカー選手でいられた」……OB数珠つなぎ第2回・中編

 

かつて横浜FCでプレーしたハマブルー戦士に当時の思い出をいろいろ語っていただき、次に登場するOBも紹介していただいてOBの輪をどんどんつないでいく予定のこの企画。第2回は2004年から07年、その後他チームを経由して12年の後半から15年までプレーした中島崇典さん。退団から現在までを語った前編に続き、この中編からはいよいよ横浜FC在籍時代を振り返っていただきます。また選手時代の写真はすべて中島さんからご提供いただきました。

(聞き手/芥川和久、取材日/2022年12月12日、12月22日)

 

 

▼高校の進路希望は『サッカー選手』としか書かなかった

――では、サイドバックなんか全然やりたくなかったという少年時代のことから聞いていきましょう。サッカーを始めたのは?

「チームに入ったのは小学校3年か4年でした。兄貴がサッカーやってたので、その練習相手をしてて。サッカーが好きになって毎日ボールを蹴って、チームに入りたいなと思ってたんですけど、ようやく親が入れてくれたのがそれくらいで」

 

――お兄さんの影響で始めた弟が兄より上手くなるってのはよくある話ですね。

「あるあるっすね(笑)。兄のおかげです。でも兄は小学生のころから全国に出てて、ジェフの羽生(直剛)くんや村井(慎二)くん、後に市船で10番をつけてレッズに入る山根(伸泉)くんとかと同じチームでやってたので。親も兄貴に対する期待はかなり大きかった。それをずっと見ていて、『この兄を超えたらもっとすごくなれるんだ』と、明確な目標でしたね」

 

――お兄さんはプロには?

「ならなかったですね。いや、なれなかった、か。まあ、失速していきました(笑)」

 

――幼少期に憧れた選手は?

「それはもう、カズさんです。ずっとカズさんですね。背番号も11だったし、カズさんのCKの蹴り方を真似してたし、PKも真似してたし。フェイントもシザースを真似してたし、ゴールを決めたらカズダンスを真似してたら怒られて……、早く戻れって(笑)」

少年時代はまさか後にカズさんとチームメイトになるとは夢にも思わなかった

 

――高校は羽生さんと同じ八千代高校ですね。

「推薦じゃなくて受験して入りました。小中学校と弱かったのでどこからも推薦が来なかったし、市の選抜も入ったことがなかったし。で、当時は市船(市立船橋高校)とか習志野高校が強かったので、行きたかったですけど、サッカー推薦じゃない子はたぶん無理だなと分かってたので。羽生くんが八千代で全国に出ていたので、体育科なら何とか受かるかなと思って勉強して(笑)。入れましたけど、1年生の時は同い年の試合にも出られなくて、めちゃくちゃしんどかったですね。でも、それでも諦めずに練習してたことで、チャンスをつかんで試合に出られるようになって。それがサイドバックだったんですけど(笑)」

 

――中学校まではFWを?

「そうですね。FWとか(前めの)中盤をやってました。サイドバック、すげえ嫌だったんですけど、チャンスだったんで頑張らないとと思って。その試合で3点くらい取ったんですよ。そこからサイドバックになりました(笑)」

 

――当時のサイドバックというと、ロベルト・カルロスとか?

「そうですね。左利きだったし。でもロベカルのプレーなんて一切見なかったですけど(笑)。デル・ピエロとかばっかり見てたんで」

 

――当時のロベルト・カルロスだってFKとか、行ってクロス上げて戻ってきてとかで、『サイドバックがゲームを作る』みたいな時代ではなかったですよね。

「全然、ないですね(笑)」

 

――高校サッカーで選手権などには?

「全然、出られなかったですね。市船の黄金期でしたから。ただ、1年のころは試合に出られなかったですけど、3年生たちがインターハイで優勝してて(史上初、引き分けによる広島皆実との両校優勝)。2年生の時は試合に出て、インターハイで3位。準決勝で大久保嘉人に3-0でボコられました(笑)。徳永悠平もいて、松橋章太、徳重健太……国見、めっちゃ強かったです。3年生のときは全国は行ってないです。もう1人、プロになったヤツはいたんですけど」

 

――もう1人のプロとは?

「鈴木規郎です。ノリカル」

 

――めっちゃ強力な左サイドじゃないですか!

「そう。俺がサイドバックで、あいつが前で。俺が蹴ってあいつが走って決めてくるっていう、それだけでしたね(笑)。めっちゃ強かったんですけど、なぜか大会になるとめちゃ弱かったです(笑)」

 

――他にライバル校にプロになった選手は?

「阿部翔平が市船にいましたけど、あいつは筑波大に行きました(卒業後に名古屋に入団)。あとは習志野高校の柴小屋(雄一)が大分に入りました。それくらいかな。同年代のユースだと、ジェフに山岸(智)とグッピー(岡本昌弘)、レイソルに宇野沢(祐次)がいましたね」

同世代の千葉出身選手の名前が次々に出てくる。高校サッカーが熱かった時代だ

 

――そんな中で、高卒で湘南に入ったのは?

「八千代高校の監督が日体大出身で、当時の強化部長が森(淳)さんで、日体大つながりで話をしてくれて練習参加させてくれるということで。俺、高校のときの進路希望って、『サッカー選手』としか書いたことがないんですよ。試合に出てない1年生の時から、卒業するまで。怒られましたし(笑)、笑われもしましたけど。でもやっぱり、書くことって大事なんだなと思いましたね。洗脳じゃないですけど、そうやっていくうちに、自分で『本当にプロになるんだ』って思うようになって。先生も『お前、本当にプロに行きたいのか』ってなって、どこかに話をしてやるってことでベルマーレに話してくれて。で、練習参加して、ヴェルディと練習試合があったんですけど、外国人選手に思いっきり後ろからファウルして、謝りもせずに帰って(笑)。そんな練習生初めて見たとか言われて(笑)」

 

――よく取ってもらえましたね。

「はい(笑)。でもそのとき、あとから大宮からも話が来たんですよ。その2択でした。当時は両方ともJ2で。大宮はそのあとすぐJ1に行きましたけど。まあ先生とのつながりもあったし、湘南が一番最初に欲しいと言ってきてくれたので。何より、当時の湘南は左サイドバックがいなかったので、すごいチャンスかなと思って」

 

――湘南時代はどうでしたか? 記録ではルーキーイヤーは11試合に出ていますが、2年目は出場なしです。

「日韓ワールドカップがあったので、卒業式前に開幕だったんですけど、その開幕戦でスタメンデビューできたのは良かったですね。試合に出たいから行ったので、狙い通りというか。でも、最初はがむしゃらに頑張って、ワーっとやってたんですけど、徐々に慣れてきて、プロのアレに合わせるようになってからはキツかったですね。もう全然……、やっぱがむしゃらにやらないとダメでしたね(笑)。変に慣れちゃって、がむしゃらさがなくなると、ただの高校上がりのヘタクソだった。そこは難しかったですね。最初の11試合バーっと出たけど、そのあとは出られなくなって、2年目も出られなくて、クビになりました」

 

――これがプロか!というのはどんなことがありましたか?

「コーチも厳しくて、何をやっても怒られてました。正解が分からなくて、パスで『これは上手くいったな』と思っても否定されるし(笑)。監督が田中孝司さんでしたけど、1年で代わって、トルシエ・ジャパンでフィジカルコーチをやってたサミアが監督になって。サミアもよく分からなかった。『ナカジ、お前食ってばっかりだとソーセージになるぞ』とか言われて、意味が分からない(笑)。コーチはジュビロから来た人で、名波さんとか藤田さんを育てた人でしたけど、完全に嫌われてましたね。何しても怒られてたので」

 

 

▼LEOCが参入してカズさんが来て、すべてが変わった

――そこから2004年に1回目の横浜FC加入となりますが、その経緯は?

「湘南を満了になってチームを探していて、当時は代理人もつけてなかった。大学とかJFLのチームから話はありました。モンテディオからも話があったんですけど、セレクションで落とされて。どこもなくて1月に入ったところで、八千代高校の同級生の親に日本代表だった瀬田龍彦さんがいて、その方に『もうやめるかもしれないです』って話をしたら、瀬田さんは奥寺(康彦/当時横浜FC社長兼ゼネラルマネージャー、現横浜FCシニアアドバイザー)さんとすごく仲が良くて、『奥寺に話をしてやるから、ちょっと待ってろ』と。そしたら奥寺さんから『練習生という形になるけど、来てくれ』と言われて。それで千葉のこの辺り(稲毛区)から横浜まで、毎日電車で通いました(笑)」

 

――当時の横浜FCはJ2に昇格したばかりで、LEOCが参入する前ですから相当に厳しい環境だったのでは?

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