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【インタビュー】 中島崇典「子供たちを育てて、僕のいたチームに送り込む。それが僕の夢です」……OB数珠つなぎ第2回・前編

 

笑っていいとも!方式でOBの輪をつないでいくインタビュー企画『OB数珠つなぎ』。第1回の寺田紳一さんにご紹介いただいて今回登場するのは、寺田さんと同じタイミングで2012年の夏に再加入し、15年までプレーした左サイドバックの中島崇典さんです。

中島さんは2002年に湘南でプロ入り。04年に横浜FCに1回目の加入を果たして06年にJ2優勝、07年にはJ1で戦いました。08年から福岡へ移籍し、11年には柏に移籍してJ1優勝も経験しています。16年に現役を引退。現在は千葉市でACeL(エシェル)サッカースクールを運営し、指導者の道を歩んでいます。

横浜FC退団から現在までを語った前編は無料公開。中編と後編は横浜FC時代をたっぷり振り返ってもらっていますのでお楽しみに。

(聞き手/芥川和久、取材日/2022年12月12日、12月22日)

 

【プロフィール】中島崇典(なかじま たかのり)。1984年2月9日生まれ、千葉県出身。多くのJリーガーを輩出した八千代高校卒業後、2002年に湘南ベルマーレでプロ入り。04〜07年まで横浜FCに所属。08〜10年は福岡、11〜12年前半を柏でプレーし、12年後半から横浜FCに復帰。15年に契約満了となり16年は鳥取でプレーするが、そのオフに契約満了となり現役を引退した。現在は千葉県でACeL(エシェル)サッカースクール(https://www.instagram.com/acel_soccer_school/)を運営し、子供たちの指導にあたっている

 

 

▼サッカーの神様は見ていたんだなと思う

――中島さんは横浜FCには2015年まで所属しました。まずその後のことから教えてください。

「あの年の最後のほうは移籍先を探していたんですけど、試合にも出てなかったわけじゃなかったから、契約満了になったのは正直ショックでした。でも横浜FCには2回もお世話になったし、思い入れが強すぎて、まあチームがそういう判断したんだったらと気持ち的には納得して」

 

――31歳で、次のチームといってもなかなか難しかったのでは?

「戦力外通告を受けてすぐに、2007年に横浜FCで一緒にやってて当時ヴェルディにいた平本一樹くんから電話が来たんですよ。『お前、ヴェルディに来いよ』って。その時は変に自信を持ってて(笑)、ほかにもオファーがあるだろうとか思って、すぐに返事しなかったんです。でも実際に待ってみたら、全然来なくて。で、平本くんに『やっぱりお願いします』って電話して。その時たぶん監督はOKだったみたいですけど、最終的に強化のほうでNGの判断になって。だからずっと決まらなくて、1月に入って、札幌にスノボ旅行してた時に知らない番号から電話がかかってきて。それが当時鳥取の監督に就任したテツさん(柱谷哲二)からで、『お前が戦力外になったとは知らなかった』と」

 

――トライアウトも出てなかったんですね。

「そう。『前田俊介とか片岡洋介とか、水戸の選手も何人か、宮市剛も取ってるから』とかいろんな話をしてもらって。もちろんテツさんは昔から知ってるし、水戸をすごく強くしたイメージだったから、やってみようかなと思って。一緒に旅行してたメンバーに相談したら『必要としてるところがあるなら良いんじゃない?』と。それでスノボのリフトの上からテツさんに『行きます』って電話しました(笑)」

 

――柱谷監督とはどこか被ってましたっけ?

「いや、どこも被ってないです。ミロシュの通訳兼コーチだったサカティー(坂田和也)が鳥取のヘッドコーチになってたから、たぶん僕らのことを勧めてくれたんだと思います。キタさん(喜多靖)が強化部長で、『黒津(勝)くんとか呼んだら一緒に来ないかな?』って言うから、僕がマサル(黒津)を誘って。彼もチームがまだ決まってなかったからOKして」

 

――鳥取はJ3に降格して3年目。柱谷監督はじめ選手もかなり補強して昇格を目指したシーズンだったのでは?

「そうだと思います。クラブ自体はすごく良かったと思いますよ。練習場もちゃんとあるし、専用スタジアムもちゃんとあって。ただホームタウンの米子市からスタジアムのある鳥取市まで2時間かかるから(笑)。でもホームゲームは前泊だったから、クラブとしても試合に勝つための最高の準備を提供してくれた。でもまあ難しかったですね、J3のサッカーは」

 

――どういったところが難しかったですか?

「J2って戦いの中にもいろいろ駆け引きがあったりとか、スピード感、スピードの緩急とか、いろんなことがありましたけど、J3は今はどうか分からないですけど、悪く言えば大学サッカーの延長というか、あまり駆け引きとかも通用しないし、バカみたいに走ってくるし、正直すぎるというか……。こっちは騙してるつもりでも騙せてなかったりとか(笑)。『何を考えてサッカーしてんだろう?』って。僕もすごく走る選手ではなかったので、ちょっと難しかったですね」

 

――駆け引きなしで、体力、スピード、身体能力の勝負になっていたと?

「そうですね。若い子も多かったし、大卒の子が多くて、高卒の子もいたし。おっさんにはキツかったですね(笑)。真夏も昼間に試合があったし。アウェイの移動もキツかったですね。伊丹空港までバスで3時間(笑)、そこから飛行機に乗って、また向こうの空港から移動してって」

 

――この年の鳥取の順位は15位で、下から2番目でした。

「メンバーを見れば、僕から見ても『行けるだろ』と思ってました。選手も悪くなかったし、監督も悪かったわけじゃない。でも結果は出なかったですね。テツさんも1年で退任することになって、僕らも責任を感じました。僕自身で言えば、J3のサッカーができなかった」

 

――去年あれだけの大補強をした岐阜が14位に沈んだというのも……。

「そういうことだと思います。あんなに良い選手がいても勝てない」

J3時代のことを思い出しながら語る中島さん

 

――鳥取は自分からやめたんですか?

「いや、その1年で戦力外になって。トライアウトに出て、そこで前十字靭帯を切って、終わりました」

 

――それで引退を決意することに?

「そのちょっと前に、メンタルがけっこう落ちてて、『チームをクビになったし、練習に行っても意味がないな』と思って、1日だけですけど練習を休んだ日があったんですよ。たぶん、サッカーの神様は見てたんだなと思いますね。やっぱり頑張ってるヤツにしか、良いものは得られない。自分はそこで頑張ることをやめてしまったので、『もうやめなさい』ということなのかなと思って」

 

――割と淡々と受け入れられたんですね。

「はい。前十字は一回経験してるんで、そこからのリハビリの辛さも知ってたし。みんなも『お疲れさま』って言ってくれて。ただカズさんだけは『まだ続けるんだろ?』と言ってくれましたけどね(笑)。やっぱりあの人はすごいです。ケガが治ったあとに『ああ、まだやりたかったな』と思いましたけど」

 

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