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無料公開【Gマガ】〜ターニングポイント〜 GK21松原修平インタビュー「オレは、泥水を飲んで、生きてきた」

無料公開【Gマガ】〜ターニングポイント〜

GK21松原修平インタビュー

「オレは、泥水を飲んで、生きてきた」

 

 

 選手たちはどのような道を歩み、いまザスパにいるのか。

それぞれのターニングポイントから現在地を探る。

             

 

GK21松原修平

 

ターニングポイント1

「高校3年生の夏、泣きながら家に帰りました」

 

2018年のザスパ守護神。J3ザスパでビッグセーブを連発して評価を高めると、ザスパでのJ2昇格は逃したが、J1湘南からのオファーを受けて旅立った。そして今季、再びザスパへ戻ってきた。

 

GK松原修平。1992年、北海道函館市出身。コンサドーレ札幌U-15U-18でプレーし、17歳のときにはU-17日本代表に選出されている。

 

ユースからJリーグ入りを希望した中で、高校卒業時の2011年にファジアーノ岡山に加入。岡山で6シーズンプレーして2017年にカマタマーレ讃岐へ。そして2018年にJ3ザスパへ加入し、ブレイクした。

 

GKとして順調に足場を固めてきた印象だが、多くの挫折があったという。本人が挙げた最初のターニングポイントは、コンサドーレ札幌U-18のときだった。

 

「札幌のユースからトップチームに上がれなくて・・・。ユースのときには代表に呼ばれたり、2種登録でトップ登録されたりしていたので、正直、上がれるものだと思っていました。高校2年の秋からは月に一回練習に加わっていました。トップのメンバー外練習に呼ばれたりもしていたので、トップが身近な存在でしたし、自分の中では絶対に上がれるものと思っていました」

 

しかし、高校3年の夏にトップ昇格が「見送り」になったという。

 

「そこまでは、わりと順調に進んできていて、代表にも呼ばれましたし、トップに上がれないって伝えられたときが初めての挫折だったと思います。『オレ、コンサドーレでプロになれないんだ』って・・・。現実を理解するのに時間がかかりました。ユース時代は、自分の目標は全部達成してきていたので、サッカーに関して、物事がうまく進まなかったのはあのときが初めてでした。自分としては結構、こたえました。札幌でトップに上がれなかったのは、いまでもコンプレックスです」

 

どのような状況で「見送り」になったのだろうか。

 

「夏のクラブユース選手権が終わって、『1週間、トップに行ってこい』ってコーチに言われて、トップの練習にいきました。そこが最終判断だったと思います。8月中旬くらいに、ユースの監督に呼ばれて、『(トップ昇格が)ダメだった』って言われました。その日は練習にも身が入らずに、泣きながら、家へ帰りました。家で、父と母に伝えたときは、ずっと応援してくれていたので申し訳ない気持ちでした。そこから1カ月くらいは、練習には行っていたのですが、あまり記憶がありません。トップに上がれなくなったあとに、大学の話が来ていて、『このまま大学へ行くだけか』って、無気力症候群みたいになってしまって・・・」

 

大学進学が決まっていた中で、ユースからダイレクトでのプロ入りをあきらめきれなかったという。

 

「第一優先は、ユース卒業後のプロ入りでした。大学の選択肢もありましたが、大学に行ってもプロになれる保証はありません。どうしてもプロになりたかったんです。強豪の大学から声をかけてもらっていた中で、何年か前に札幌ユースの先輩が高校から水戸入りしたのを知っていたので札幌以外のチームで興味を持ってくれるところがないか調べてもらって、3チームくらいから練習参加の許可をもらいました。その中に岡山があり、練習に参加してオファーをもらいました。同期に同じような境遇の選手も多かったので、ここでだったら成長できると思い、岡山にお世話になることを決めました」

 

大学という道が用意されていたにもかかわらず、険しい道を選んだ。札幌でトップ昇格の夢を断たれたあとに、松原の新たなサッカー人生が始まったと言える。決して、すべてが順調だったわけではない。

 

「オレは、あのときから、ずっと泥水を飲んで、生きてきた気がします」

 

 

次回へ続く

 (2020.05.18)

 

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